1000年の処刑場:血に染まる三条河原と六条河原の歴史

鴨川

観光客で賑わう京都でもとくに京都らしい場所といえば三条河原。

京都からTV中継があると最初に三条大橋周辺がよく映されます。

鴨川の三条付近では夏になれば納涼床で涼みながら美味しい料理を食べたり、川べりでは恋人たちが集まりデートスポットにもなっています。カップルが等間隔で座る光景はもはや鴨川名物です。

今は観光客や恋人たちが集まる鴨川。

ところが鴨川の川べりはかつては処刑場だったことをご存知でしょうか?

鴨川の三条河原から六条河原までは平安時代から江戸時代までは処刑場だったのです。多くの人々がここで処刑され、生首がさらされていました。

歴史上の著名人も数多くこの場で最期を迎えたり、さらし首になっています。

平将門、近藤勇は他の場所で命を失い首が運ばれてさらされました。

石田三成や石川五右衛門はこの場で処刑されました。他にも数多くの人々が処刑されたり、さらし首になっています。

三条河原の知られざる歴史を紹介しましょう。

 

目次

鴨川の三条~六条河原で処刑さらし首になった人

鴨川の三条~六条河原では多くの人が処刑やさらし首になりました。歴史の記録が残っている主な人たちだけでもこんなにいます。

場所 西暦 人物    
平安時代        
七条河原
六条河原
六条河原
六条河原
六条河原
六条河原
六条河原
940年
1159年
1159年
1185年
1185年
1185年
1185年
平将門
藤原信頼
源義平
平宗盛
平清宗
平能宗
藤原忠清
平将門の乱
平治の乱
平治の乱
源平合戦
源平合戦
源平合戦
源平合戦
さらし首
斬首
斬首
さらし首
さらし首
斬首
斬首
鎌倉時代        
六条河原 1206年 安楽房 承元の法難 斬首
室町時代        
六条河原
六条河原
四条河原
六条河原
六条河原

1344年 
1441年
1441年
1441年
1443年 

春日顕国
赤松満祐
赤松義雄
真操
日野資親ら50人
南北朝
嘉吉の乱
嘉吉の乱
嘉吉の乱
禁闕の変 
さらし首
さらし首
さらし首
さらし首
斬首 
安土桃山時代        
六条河原
三条河原
三条河原
三条河原

六条河原
三条河原
六条河原
三条河原
六条河原
三条河原

1582年
1593年
1593年
1594年

1601年
1601年
1601年
1601年
1601年
1601年

斎藤利三
豊臣秀次
豊臣秀次の妻子39人
石川五右衛門と
 家族9~10人
石田三成
石田三成
小西行長
小西行長
恵瓊
恵瓊
山崎の合戦
  
 

関ヶ原合戦
関ヶ原合戦
関ヶ原合戦
関ヶ原合戦
関ヶ原合戦
関ヶ原合戦

斬首
さらし首
処刑
油で釜ゆで

斬首
さらし首
斬首
さらし首
斬首
さらし首

江戸時代前期        
六条河原
六条河原
六条河原
1615年
1615年
 
長宗我部盛親
豊臣国松
キリシタン多数
大坂夏の陣
大坂夏の陣
キリシタン弾圧
斬首
斬首
斬首
江戸時代幕末        
三条河原
三条河原
三条~四条河原
三条河原
1862年
1862年
1862年~
1868年
島田左近
本間精一郎
公家・幕府要人多数
近藤勇
攘夷運動
攘夷運動
攘夷運動
戊辰戦争
さらし首
さらし首
さらし首
さらし首

ここに書いたのは名前のわかる一部の人達です。実際にはもっと多くの人が処刑されたりさらし首になりました。

どれほど多くの人たちが三条から六条河原で処刑・さらし首になったのか分かると思います。

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始まりは平将門だった

鴨川の河原でさらし首が始まったのは平安時代の天慶3年(940年)でした。

関東で平将門が反乱を起こします。奮戦虚しく将門は戦いに敗れ、彼の首は平安京に送られました。

平安京に届けられた将門の首はさらしものになりました。東市の都大路や七条河原にさらされたといいます。

ところが将門の首は何ヶ月たっても腐らず生きているかのように目を見開き歯ぎしりしているかのようでした。

あるとき、歌人の藤六左近が将門の首をみて歌を詠むと将門の首はからからと笑い「私の体はどこだ。ここに来い。首をつないでもう一戦するのだ!」
と叫びました。そしてある日。将門の首は胴体を求めて東へ飛び去ったといわれます。

将門の反乱は都の人々に大きな衝撃を与えたのです。それだけに反乱を起こしたものがどうなるのか見せしめにする必要があったのです。

今では東京の守り神として敬われる将門ですが彼の怨念伝説は京都から始まったのです。

平安時代は死刑は廃止されていたので京都では処刑は行われませんでした。しかし平安時代平時末期に起きた宝元・平治の乱で死刑が復活します。保元の乱で敗れた人たちを処刑した場所は船岡山でした。

平治の乱では六条河原で処刑が行われました。藤原信頼は後白河上皇の側近で大きな権力をもっていた人物。しかし二条天皇・平清盛派との戦いに敗れ六条河原で斬首になりました。鴨川の河原で処刑になった有名人第一号といえるかもしれません。三条から六条河原は処刑場として定着します。 

源平合戦で捕らえられた平家側の武将が処刑されたり、さらし首になったこともあります。

室町時時代の争い

鎌倉時代から室町時代にかけては刑罰が過激になり処刑される人が増えました。その多くが犯罪者です。

京都の町を焼き払った応仁の乱。その原因になった争いが嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱(かきつのらん)です。

嘉吉の乱とは室町幕府に対して守護大名の赤松氏が起こした反乱です。反乱に敗れた赤松氏の当主・赤松満祐など一族の有力者が討死に。その首は三条河原や六条河原でさらしものになりました。

日野一族と南朝方50人の大量処刑で血に染まる

嘉吉の乱からわずか2年後、禁闕の変(きんけつのへん)が起こります。南朝復興を目指す勢力が三種の神器を奪おうと御所に押し入った事件です。このとき公家の日野有光とその息子・日野資親たちが反乱に加わりました。反乱は幕府によって鎮圧され日野有光は討ち死にします。生き残った日野資親や反乱に加わった者50人が処刑されました。一度にこんなに多くの人が処刑されたのは初めてでした。

この処分で日野家はいったん断絶しますが後に再興されます。日野富子は再興された日野家の出身です。

豊臣秀次の妻子39人の凄惨な処刑

三条河原で行われた処刑でも最も凄まじいのは豊臣秀次の妻子39人の最期です。

天下人・豊臣秀吉は子供がいなかったので甥の秀次を後継者にしました。ところが側室の淀殿が秀頼を生むと、秀次は邪魔になってしまいます。豊臣秀次は謀反の疑いで高野山に送られ自害しました。その首は京都の三条河原でさらにものになります。

それだけではありません。秀次の妻とその子ども・侍女・乳母の計39人が捕らえられ市中引き回しにされたあと、三条河原につれだされました。三条大橋の下には塚が作られその塚にはなんと秀次の生首が置かれていたのです。

妻子たちは秀次の首の前で次々と処刑されました。はじめに幼い子どもたちが母親の前で斬られ、その次に女達が斬られていきました。子供の遺体に母親の遺体が折り重なる異様な光景を目にした人々は「あまりにも酷い」と役人に罵声を浴びせるものや「見に来なかればよかった」と後悔する人もいました。

妻子たちの遺体は大きな穴に無造作に放り込まれ、処刑が終わると穴は埋められて秀次の首が納めた首塚が作られました。

人々はこの塚を「畜生塚」「摂政塚」と呼びました。

その塚の跡地には供養塔が立てられました。秀次と妻子たちを供養するために建てられたのが瑞泉寺です。瑞泉寺には今も秀次たち妻子たち、そして秀次に仕え殉死した家臣たちを弔う供養塔があります。

秀次の塚

瑞泉寺にある豊臣秀次一家の供養塔

 

1000年の処刑場

以上、ここにあげたのは歴史に残るほんの一部の人達です。

三条河原と六条河原は平安の昔から処刑場やさらし首の場所になっていました。

もちろん処刑場があるのは京都だけではありません。

日本全国にありました。

でも京都は歴史が長く、さまざまな争いの舞台にもなっただけに凄惨な事件が多いのも事実です。

今は華やかな京都の町にもかつてはそんな血なまぐさい歴史がありました。処刑場だけではありません。

平安の昔より京都は疫病にも悩まされ、多くの戦乱にも巻き込まれ人々は不安を抱えて生きていました。

そんな街だからこそ京の人々は怨霊に怯え心の安らぎを求めて様々な神様仏様にすがってきました。

京都に神社仏閣が多いのも神様の力が必要だったからなのですね。

 

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