神社に行くと名前のわからない神様がお祀りされていることがあります。地主神とだけ書かれていることもあります。名前はあっても由来がよくわからない神様もあります。
古すぎてよくわからない。ただそれだけだと思ってませんか?ところがもともと古代の神様には名前がついてない(知られていない)ことも多かったのです。
平安時代の僧侶で歌人だった西行法師は伊勢神宮を参拝したとき「何事のおはしますをばしらねども かたじけなさの涙こぼるる」と歌を詠みました。当時は僧侶は伊勢神宮の神域に入れなかったので五十鈴川の対岸から詠んだといわれます。
現代的に言えば「どんな神様かは知らないけれど、感動で涙がこぼれる」という意味の歌です。西行は出家前は佐藤義清という名前の武士でした。京都で天皇を守る役目をしていましたから伊勢神宮にお祀りされている神様をまったく知らないとは思えません。でもそこが世を捨てた西行法師らしい言葉でしょう。
西行法師ほど極端ではなくても日本人は似たようなものでした。
つまり、神様の素性は気にしなかった のです。
現代人が西行法師と違うのは伊勢神宮に行ったからといって涙を流さないことでしょう。
それはともかく。もしかすると古代のカミにも名前はあったかも知れません。でも古代の人々は「神様の名前を口にするのは失礼だ」と考えましたからよけいに名前が伝わりませんでした。
だから古代の人々は名前はなくてもただ「カミ」として崇めていました。それで十分だったのです。古代から続く日本人の信仰と神様に名前がつくようになっていきさつを紹介します。
古代の神様には名前はなかった
古代の人々は太陽、月、星、山、海、川、木、石といった自然そのものを神様と考えお祀りしていました。風や雷などの自然現象も神様が引き起こしていると考えました。人間の力を超えたもの、人間の考えでは理解できないようなことをする存在は神様だったのです。
これを自然崇拝といいます。
より正確には「山や木など自然界の物に人間を超えた存在が宿っている(=乗り移っている)」と考えたのです。だから立派な山や木や岩には力の強い何かが宿っていると考えました。ですから土や岩のかたまりである山そのものが自ら意思をもって「神」になったわけではありませんが人間の側からみれば同じことです。
「何かに人智を超えたものが乗り移って周りに影響を及ぼす」という考えは日本人の神に対する基本的な考えです。この考え方は古代から現代まで続いています。神様が乗り移ったものは、依代(よりしろ)といいます。御神体も同じ意味です。御神体という言葉は漢字が伝わった後で造られた言葉なので古くは依代(よりしろ)や御霊代(みたましろ)と呼びました。
依代には神様が取り付くものによって呼び方がかわるものもあります。山であれば神名備山(かんなび)、岩なら磐座(いわくら)、樹木なら神籬(ひもろぎ)といいます。
この時代には神様には名前はありません。自然そのものが「神」だからです。地域に住む人にとって「神」といえばそれで通じるから名前は必要ないのです。山の神、森の神、日の神といえばそれでよかったのです。
山とか川といった目立つ場所でなくてもその土地には土地を守る神がいます。その土地を守る神様はその土地に住む人を守ると考えられました。地主神(じぬしかみ)、産土神(うぶすかみ)といいます。
祖先が神様になった
人間は人が亡くなると葬り故人の魂を慰める儀式を行いました。代々繰り返している間に祖先を崇拝する信仰が産まれました。とくにその土地を開墾した人や一族を率いていた人、偉大な功績のあった人は子孫に代々語り継がれ、一族の守り神となりました。それが氏神です。その場合は故人の名前を語り継ぐこともあったかもしれません。
でも日本では「人の名前を口にすることは失礼」という考えがありました。誰が祀られているのか一部の人しか本当の名前は知りません。人々には氏神としか理解されていなかったのです。故人の名前も世代を重ねている間に本当の名前が忘れ去られることもあったでしょう。
地主神も氏神も基本的には人々が暮らす集落に一つしかありません。だから名前がなくても困らなかったのです。
名前とは「似たようなものが複数あった場合にひとつひとつを区別するためのもの」です。狭い地域で神といえるものが他になかった場合は区別する必要がありません。だから神様に個別の名前はついていませんでした。
神様に名前がついた
ところが人々の交流が活発になって社会が大きくなると似たような役目の神がいくつも存在することになります。そうなると似たような性格の神を区別しなければいけません。そこで神に名前ができるのです。でも多くの場合は神のいる地名をつけて区別していました。
〇〇神、〇〇大神。といった具合に。
でも神様の座している地名で呼んでいるだけで本当の名前ではありません。本名ではなくニックネームのようなものです。
平安時代、10世紀のはじめ頃。朝廷は全国の神社を調べて「延喜式神名帳」を作りました。ようするに国が認めた神社リストです。
リストに載った神社は式内社とよばれます。石清水八幡宮のように神仏習合で寺院が管理している神社や大将軍を祀る陰陽道系の神社は式内社には含まれません。式内社には2861の神社があり、3132柱の神様が祀られています。
ところが多くの神社では祀られている神様の名前が記録されていません。風土記などの地元で作られた記録でも神様の名前が書かれているのはごく一部です。小さな神社など延喜式神名帳に載ってない神社も多く実際には名前のわからない神様はもっとあったことになります。
多くの神社では〇〇社、〇〇宮、〇〇神社という名前はあります。そこに祀られている神様は神社の名前と同じ、◯◯神、◯◯大神とよばれていました。神社の名前は地名が多いですから、地名=神様の名前になってしまったものも多いです。たとえば「松尾神社」に祀られている神様は「松尾神」といったぐあいに。そこに祀られ地ているのはその土地の氏神です。
有名な神様をお祀りする神社が全国に増えた理由
平安時代の10世紀をすぎると「古事記」や「日本書紀」に載っている神様の名前が神社の記録に出てくるようになります。
「似たような性格の神様なら同じ神様じゃないか」と人々が考え。地方の山の神、水の神にも記紀神話の神様の名前が付いたのです。
さらに時代が進むと血縁関係でまとまっていた氏神や地縁でまとまっていた産土神への信仰が薄れ、人々はもっと現実的なご利益を望むようになりました。そこで有名な神様。つまり「ご利益の大きな神様」をお招きしてさらにご利益をいただこうと考えるようになりました。八幡宮、稲荷神社、天満宮など同じ神様を祀る神社が全国にたくさんあるのはそのためです。
地方のお店が全国チェーン店に加盟して系列店になるのと似ています。
時代とともに変化する信仰
こうして有名な神様を祀る神社が全国に増えました。その一方で古代から存在する名前のない神様、地名で呼ばれていた神様は人々の記憶から消えていきました。
江戸時代にはすでに「神社にはお祀りしてるけど、何の神様なのか地元の人でも知らない」ことはよくあったようです。もともと神様の名前は気にしないという大らかな日本人の性格がそうさせてしまったのでしょう。
でも江戸時代以降「神様の名前やご神徳が分からないのは困る」と考えた人達が有名な神様を招いて有名神社の系列にしてしまうことはあったようです。
しかも有名な神様ですらその正体がよくわからないこともあります。八幡神はかなり複雑な経緯のある神様なので最初の姿はとどめていません。牛頭天王は仏教系といわれますが世界のどこにも信仰された痕跡がありません。実は日本独自の神様だったりします。それでも人々は信仰しています。
また神様も人々が期待するとそれにあったご利益を授けてくれるから問題なかったのです。
外国の宗教(とくに一神教)と違い、日本の神様も信仰する人々も大らかだから細かいことにはこだわらないようです。
一般的な傾向として古代から祀られていた古い神様は現在の神社では地主神として祀られていることも多いです。名前や素性のよくわからない神様もそうなのかもしれません。神社に素性のよくわからない神様があったら、もしかしたらその地域でもとくに古い神様なのかも知れませんよ。
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