京都を守る天門の結界

 

京都が四神相応の地は有名ですよね。でも都を守るしくみはそれだけではありません。天門を守る結界があるのです。

桓武天皇は怨霊に怯えて長岡京から平安京に遷都しました。確かに京都は地理的にも都にふさわしい場所でした。淀川を使えば瀬戸内海にも繋がり水運に恵まれます。東国と西国の街道が交わり物流の面でも都合がいい。そんなによい場所を再び怨霊のために手放したくはありません。

そこで桓武天皇は怨霊や悪霊、魑魅魍魎から都を守るため様々な仕掛けを用意しました。怨霊に怯えたのは桓武天皇だけではありません。あとを継いだ天皇や朝廷も都を守るために様々仕掛けを増やしていきます。そうして平安京は歴代の都と比べても霊的な防御施設=結界の多い街になりました。

天門を守る結果もそのひとつです。

あまりなじみが無いかも知れませんが平安京につくられた結界の中でも最も古いもののひとつです。

京都を守る「天門の結界」を紹介します。

 

目次

天門とは

陰陽道では注意しなければ行けない方角がいくつかあります。

そのなかでも特に重要なのが天門(てんもん)です。

天門は北西(乾)

天門とは北西の方角です。
八卦では乾(けん)にあたります。
十二支では戌と亥の間にあるので「いぬい」といいます。

そこで陰陽道では乾を「いぬい」と発音して北西の方角を意味します。

現在でも「乾」と書いて「いぬい」と発音する名字がありますよね。もともとは陰陽道の習慣なのです。

易や方位学を知ってる人なら九星気学と同じだと思うかも知れません。陰陽五行説に易を取り入れてできたのが九星気学。陰陽道は日本で陰陽五行説に易、道教、神道、仏教を融合して発展したもの。だから平安時代の陰陽師は九星気学も知っていたんです。

陰陽道では乾の方角を「天門」とも呼びます。

現在では凶方位というと鬼門にあたる艮(うしとら)の北東が有名です。でも鬼門信仰は平安時代から始まった新しい考え。天門の歴史はもっと古いのです。

天門とは神の住む宮殿の門

もともと天門とは天帝が住む宮殿の門を意味します。天帝とは道教の最高神。天皇大帝(てんおうたいてい)ともいいます。実際には道教が成立する前から古代中国で信仰されていた神様です。宇宙の中心にあり全てを支配する絶対的な神と考えられました。北極星が天帝の宮殿といわれます。仏教の妙見菩薩や帝釈天と同じと考えられることもあります。

古代中国でも天門の方角は重要だと考えられました。

日本に伝わった天門はやはり重要な方角だと考えられました。日本では天皇大帝は天皇の守護神とも考えられたのでとりわけ天門は大事なのです。

門は入り口。入り口ということは良いものも悪いものも入ってきます。

良いものだけが入ってくるなら大歓迎。でもそうはいきません。悪いものは入ってきて欲しくありませんよね。そこで陰陽道では天門は怨霊や魑魅魍魎が入ってくる凶方位と考えられました。「悪いものは来てほしくない」という日本人特有のマイナス思考の発想ですね。でも怨霊の恐怖に怯えていた昔の人々にとっては切実な問題だったのです。

天門を守るためにすること

では怨霊や魑魅魍魎が入ってくる天門をどうすれば守れるのでしょうか?

もちろん当時の人々は天門を守る方法を発明しました。

それは天門の方角に方位除けの神や神社仏閣をおいて守ってもらうのです。

つまり門番を置くのです。

家を守る屋敷神、方位を鎮める神など、寺社仏閣をおくと怨霊や魑魅魍魎が入って来るのを防ぐことができます。また悪い運気が入らなくなるので家が栄えて子孫が繁栄すると考えられました。

天門にお祀りする神様は何でもいいというわけではありません。祖先神・菩提寺などの祖先を祀った寺社。一族やその土地を守る神。方位を守る神が祀られることが多いです。

陰陽道の考えなのに神社や寺でもいいのか?と思うかも知れません。陰陽道は神道にも仏教にも馴染みやすい考え方なのです。現代の私達が神道や仏教だと思ってるものにも陰陽道出身というものもあります。それに日本では宗教の違いや神様の出身地はあまり関係ありません。効果があれば(効きそうならば)それでいいのです。

では平安京では実際にどの神社が天門の守り神になったのか紹介します。

平安京の天門を守る神々

大将軍八神社

大小分八神社

大将軍という方位を守る陰陽道の神様をお祀りする神社。

大将軍は古代中国の戦いの神がもとになってます。もともと大将軍は凶方位を支配する恐ろしい神様でした。しかし日本では「怖い神様でも丁寧にお祀りすれば味方になってくれる」という考え方があります。大将軍をお祀りすることで災いから防いでくれるのです。大将軍は似た性格の須佐之男命や牛頭天王と一緒にされることもあります。

大将軍八神社は平安京建設当初に大内裏の四隅を守るために造られた「大将軍堂」が始まりです。最初は大将軍を祀るお堂でした。後の時代には付近の村の鎮守社にもなりました。

大将軍八神社は大内裏の北西の角に隣接する場所にあります。大内裏とは天皇の住む屋敷や役人の務める役所が集中する場所。御所の中心部分です。大将軍八神社は御所を守る結界でも最も内側を担当する神社でした。

室町時代に御所が東に移動したので大内裏の北西を守る役割はなくなりましたが平安京を守る方位除けの神として信仰され続けました。

現在でも方位除けの神様として人気があります。
こちらの御守りをもっていると悪い方位でも良い方位にしてくれるとか。

関連記事:大将軍八神社:陰陽道の星の神様で災難よけ

平野神社

平野神社

現在では桜の名所として知られる神社です。

平安京建設当初にできた古い神社です。平安時代には皇太子が祭祀を行う日本で唯一の珍しい神社でした。皇太子の守護神だったことがわかります。皇室からの崇敬も厚い神社でしたが後の時代には臣籍降下した一族(平氏、源氏)や外戚(母方の親戚)の守護神にもなりました。

御祭神の今木大神は神話に出てこない神様。平城京から移転してきた神様です。平城京の前は桓武天皇の母・高野新笠の実家があった大和国今木郡で祀られていた氏神といわれています。高野新笠の父は百済系移民の子孫・和氏の家柄。今木神は渡来人が住んでいた地域で祀られていたローカルな氏神のようです。

本当は天門を守護するために氏神を祀りたかったのかもしれません。でも皇室の氏神・天照大神を門番にするわけにはいきません。そこで母方の氏神をお祀りすることにしたのでしょう。身分が低いのを気にしていた母の地位向上にもなります。

桓武天皇としては外戚神として高木神(古事記では高御産巣日神、天孫降臨した邇邇芸命の母の父)のような役割を期待していたのでしょう。天門に神を祀るのは子孫繁栄の意味もありますからふさわしいといえます。

平野神社の由緒にある今木大神のご神徳は「源気新生、活力生成」。生命や活力を生み出す高御産巣日神のご神徳と同じ。生きるパワーをもらえる神社なのです。平野神社は桓武天皇の子孫繁栄の願いが込められた神社なのでした。

北野天満宮

 

地主神社

現在では学問の神様として有名な北野天満宮。

桓武天皇の時代に造られたのではなく今回紹介する3つの神社の中では一番新しい神社です。

新しいとはいっても菅原道真がお祀りされる前から北野神社はありました。もともと北野神社は天神地祇をお祀りする神社だったのです。

天神地祇とは天津神と国津神をあわせたもの。天と地の全ての神という意味です。天神地祇は宮中でもお祀りされていました。でも天門の守りとして宮中の外にも置かれることになったようです。

つまり天神地祇の天神は天津神の意味なので天満宮の天神ではありません。その後、雨乞いのために雷神を祀る社も立てられ北野神社は雷神の神としても崇拝されます。雷神=雨を呼ぶ神と考えられたからです。

天神地祇と雷神をお祀りしていたことから天満大自在天神となった菅原道真をお祀りする場所に選ばれたのです。天神は荒ぶる神ということで大将軍や須佐之男、牛頭天王などと同じように凶方位や疫病、災害を鎮める神として祀られることもありました。

現在は北野天満宮の主祭神は菅原道真公ですが敷地の北東にある地主社が天神地祇をお祀りする社として残っています。

ちなみに菅原道真は桓武天皇の外戚(母の母方)土師氏の子孫。菅原道真の祖父・菅原清公は桓武天皇に抜擢されて学者の名門としての地位を築きました。道真を祀る神社が土師氏の守護神を祀る平野神社の近くにあるのもなにかの縁かも知れません。

関連記事:北野天満宮は宇宙のエネルギーが集まるパワースポット

今回紹介した大将軍八神社、平野神社、北野天満宮を地図でみるとこうなります。
うす紫の四角く塗った部分が平安時代に大内裏(御所)があった場所。現在の京都御所よりも西にありました。紫のマークは天皇の住む内裏があった場所です。

こうしてみると、大将軍八神社(朱色)、北野天満宮(オレンジ)、平野神社(黄色)が内裏の北西に集中していることがわかります。平野神社は創建当初は衣笠山のふもとにあったようなので北西の一番外を守る神社となりますね。

方角や子孫を守る古い神社が集中するのは、乾(いぬい・北西)の天門が内裏(御所)を守る結界だった証なのです。

近畿五芒星は現代人が考えたファンタジー

都を守る陰陽道の結界。と聞いてこういう五芒星を描くビジュアルなものを期待してませんでしたか?

これは代表的な近畿五芒星結界。

元伊勢内宮、多賀(淡路島・伊弉諾神宮)、熊野本宮、伊勢内宮(または外宮)、伊吹山を線で結ぶと五芒星になります。中央に平城京(緑のマーク)がきます。紫のマークは平安京です。確かに良く出来てる。

でもこれは1990年代にオカルト雑誌に載ったネタ。現代人が考えたファンタジーなんです。

創建が古墳時代や飛鳥時代にさかのぼりそうな古社が選ばれています。

でも測量技術が発達していない時代にどうやって一辺が170キロメートルを超える幾何学模様を描くのでしょうか?

現実にはこのような結界はありません。

現実に使われた結界は意外とシンプルです。昔の人は小さなしかけでもいくつも組み合わせることで役目を果たせると考えたのです。

 

日本中にある天門を守る神

天門に神社仏閣をおくのは平安京だけではありません。
古くは大化の改新で造られた難波京(大阪市)の北西には大将軍社が造られました。現在の大阪天満宮です。

都以外にも大名が城下町を作るときには北西に神社仏閣を作ることはあったようです。江戸城の北西には伝通院というお寺が立てられました。これは徳川家康の生母伝通院の菩提寺です。世良田東照宮(群馬県太田市)も北西を守る神です。他の大名家でも御殿の天門に寺社仏閣を配置することはあったようです。

平城京は仏教で都を守ろうとしたので方位の神はあまり置いていません(私が知らないだけかも知れませんが)。桓武天皇は一転して仏教よりも陰陽道を重視して都を造りました。

平安京は長い間都が置かれた場所。怨霊騒ぎで移転したという過去に始まり、何度も怨霊騒ぎのあった場所です。

人々はさまざまな仕掛けを造り、都を怨霊や魑魅魍魎から守ろうとしました。そのひとつが天門を守る結界だったのです。

 

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