京都を疫病から守った陰陽道の結界・四角四堺祭

平安京

平安京ができて以来、京都は何度も疫病に苦しんできました。

現代と違って病気の原因が分からなかった平安時代の人々は疫病の原因は悪霊や怨霊と考えて恐れました。無理もありません。細菌やウィルスの存在を知らない人々からすれば原因もわからないのに突然に大勢の人が病気で倒れるのは恐怖でしかなかったでしょう。

感染症の原因が分かって対策ができるようになったのはつい最近のこと。100年近くの歴史しかありません。

それがわからない昔の人々は悪霊や怨霊、海外では悪魔の仕業と考えていたのも仕方のないことです。

でも人々はただ怖がっていただけではありません。目に見えない何かが病気を起こしていることは分かっていました。その対策も考えました。

それが結界です。

結界というと呪術的な迷信と思うかもしれません。ところが現代の感染症対策につながる考え方がすでに平安時代からありました。

平安の人々が考え出した結界を紹介します。

 

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平安京を守っていた陰陽師たち

平安時代。悪霊から街を守る結界は陰陽師が作っていました。陰陽師とは陰陽寮という朝廷の役所に勤める役人のことです。

陰陽寮は天武天皇の時代にできましたが、当時は天文観測や暦の作成・異変が起きたときの占いを行う部署でした。

奈良時代の終わりから平安時代になると異変や災害・疫病の流行が多発。陰陽師の仕事が増えてしまいます。陰陽師にも悪霊・怨霊から街や人々を守る役目が期待されるようになりました。異変が起こりすぎたので神祇官や僧侶だけでは足らなくなったのです。

そして陰陽師たちは様々な術を行って都とそこに暮らす人々を守ろうとしました。そんな彼らが使った術の中から京都を守った結界を紹介します。

陰陽道の秘技・四角四堺祭

怨霊騒ぎに人々が恐れていた平安時代。御所と平安京を守るために行われたのが四角四堺祭です。

飛鳥時代から道饗祭(みちあえのまつり)という古神道の儀式がありました。都の四方に神様を祀って町そのものを結界で包む方法です。でも度重なる疫病の流行で朝廷は新しい結界を求めていました。

そこで陰陽師たちが考案したのが四角四堺祭です。

大内裏(天皇の住居と朝廷の主要な役所が集中する場所)の四隅で行う四角祭。山城国(京都)の国境で行う四堺祭がセットで行われました。

御所を守る結界・四角祭

疫病が流行りかけたときに陰陽寮が行うのが四角四堺祭。内容は道饗祭に似ています。大内裏をピンポイントで守るのが四角祭。道饗祭よりも広い国境で行うのが四堺祭です。

四角祭は大内裏(天皇の住居と朝廷の主要な役所が集中する場所)の四隅で行う儀式です。四隅で儀式を行って「大内裏そのものを結界で包んでしまおう」というものです。

祭祀は蔵人所の役人や陰陽寮の陰陽師たちが行いました。蔵人所とは天皇の秘書室のようなもの。ところが蔵人所にいるのは役人だけではありません。陰陽寮を引退した陰陽師が天皇お抱えの陰陽師として勤務しているのです。安倍晴明も蔵人所の陰陽師として活躍したひとりです。むしろ陰陽寮よりも蔵人所の陰陽師の方がレベルが高いのです。

そんな彼が行ったのが四角祭です。

四角祭は大内裏の四隅で行います。

平安時代の御所は現在の京都御所より西にありました。その四隅を守る形で行われました。

現代の京都の地図で表現すると以下のようになります。
下のマップで赤い✕印の場所が四角祭が行われた場所です。

陰陽道では四隅は境というだけでなく、それぞれ方角的にも重要な意味がありました。

北東 艮(うしとら)  鬼門
北西 乾(いぬい)   天門
南東 巽(たつみ)   地門
南西 坤(ひつじさる) 人門

艮の鬼門は今でも有名ですね。でももともとは4つの門がありました。

四角祭では4つの方角を平等にお祀りします。鬼門だけが特別ではありません。四方全てで儀式を行わないと結界はできないのです。

祭祀を行う場所は普段はとくに施設はありません。祭祀のときだけ臨時に祭壇を作ります。祭祀は日没から夜にかけて行われます。夜は霊の力が高まる時間だからです。祭壇にお供え物を語弊がが備えられ、陰陽師が疫神を払う儀式を行います。

これらの場所は現在の京都でいうと。

艮(うしとら)の 鬼門は 晴明神社
乾(いぬい)の 天門は 大将軍八神社
南東 巽(たつみ)の 地門は 二条城
南西 坤(ひつじさる)の 人門は朱雀公園

になります。

大将軍八神社は乾の方角を守る社。平安京遷都と同じ時期に造られたといわれる大将軍堂がもとになっています。陰陽道では天門は神が出入りする場所なので乾の方角を祭ると子孫や家が反映すると言われます。そのため大将軍堂が置かれていました。

 詳しくは 平安京を守護する天門の結界

晴明神社は安倍晴明ゆかりの場所といわれます。現実には安倍家の屋敷は土御門大路に面した場所にありました。でも陰陽道にとっては重要な意味をもつ場所です。陰陽道にとって重要な場所がいつしか清明を祀る場所になったのでしょう。

現在。南東は二条城。南西には朱雀公園になっています。室町時代に御所が今の場所に移転するとこのあたりは廃れてしまったので古い建造物は残っていません。

でもこれは大内裏を守るだけです。平安京を守ることはできません。

そこで行われたのが四角祭をさらに大規模にしたのが四堺祭です。

京都を守る結界・四堺祭

四堺祭は平安京に向かう幹線道路で行われました。

四角祭や道饗祭が四隅を囲って面をカバーしようとしたのに対し。

四堺祭は原因になりそうな場所にピンポイントで対策して疫病の侵入を抑えようというものです。

四堺祭が行われたのは

・大枝の関(京都市西京区大枝)。山城国(京都府南部)と丹波国(京都府北部)の堺になります。山陰地方に向かう山陰道が通っています。

・山崎の関(大阪府島本町山崎)。山城国と摂津国(大阪府南部)の堺。大坂や瀬戸内海方面に向かう山陽道が通っています。

・逢坂の関(滋賀県大津市逢坂)。山城国と近江国(滋賀県)の堺になります。ここは東国に向かう幹線道路・東山道(後の東海道)が通っています。

・龍華(花)・和邇の関(滋賀県大津市和邇)。舞鶴や北陸など日本海側に向かう北陸道が通っています。

おおよその場所を図にするとこうなります。

四堺祭

こうしてみると。平安京に向かう主要幹線道路を抑えていることに気が付きます。関所はたいてい峠道や山と山に囲まれた狭い道に作られています。

疫病を防ぐのに道路で儀式を行うなんて非科学的。と笑う人もいるでしょう。

ところが、現代の疫病対策で最も効果的なのは「人や物の移動を抑えること」です。

入り口でどれだけ防げたかが国内の感染を減らす最も効果的な方法です。2020年の新型コロナウィルス対策でも国外からの人の移動を早々と制限した台湾は感染を抑えるのに成功しました。

日本人は古代から 疫病は外からやって来る のは知っていました。だからかつて八坂神社(祇園社)で祭神になり疫神(流行らすことも抑えることもできる)とされた牛頭天王は祇園精舎=インド出身 という設定になっています(実際には日本で生まれた神様ですが)。

平安時代の人々も 人の移動する所から疫病が入ってくる。と経験的に分かっていました。

原因がウィルスや細菌ではなく、悪霊や疫病神だと思っていたから儀式を行ったのです。

原因がウィルスだと分かっているのに移動して感染を広げている現代人よりよほど合理的な行動です。

鎌倉時代になると四堺祭を参考にして鎌倉幕府も四境祭を行いました。

しかし武士の時代になると朝廷主催の道饗祭・四角四堺祭は行われなくなりました。

朝廷が力を失ったので儀式の中心は幕府になりました。神社や氏子たちも自分たちで疫病払の祭りを行うようになりました。

近畿五芒星結界は 無い

もしかすると。あなたは「結界」と聞いて幾何学模様を地図上に描いたのを思い浮かべたかもしれません。

これは代表的な近畿五芒星結界です。

元伊勢内宮、多賀(淡路島・伊弉諾神宮)、熊野本宮、伊勢内宮(または外宮)、伊吹山を線で結んで五芒星にしたもの。中央に平城京(緑のマーク)が入ります。平安京(紫のマーク)は中心をずれます。

確かによくできています。

でもこれは現代人が考えた都市伝説。私の記憶が正しければ1990年ごろ某有名オカルト雑誌に載ったのが世間に広まったきっかけだと思います。

古代の人々が一辺が170キロメートルを超える巨大な幾何学模様を設計できるはずがありません。山岳地帯を超えなければいけないのにどうやって測量したのでしょうか?

私もこの手の話題は好きですし、月刊ムーはよく買います。このてのネタは「線引モノ」といってよく雑誌に載ります。疑似レイラインといえるかもしれません。

ウソと分かって面白おかしく楽しむのもの。ジョークです。

あくまでもエンタメ業界でウケをねらった都市伝説ですからね。

現実にはこのような結果はなかったのです。

地図上に面白おかしい模様を描いてファンタジーに浸るのも楽しいですが。

我々の祖先は知恵を絞って町や人を疫病から守るための方法を考えました。古代人の考え方や想いを理解するのも大切だと思います。

 

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