大晦日の夜になると、除夜の鐘を108回つきますね。
煩悩はなぜ108個なんでしょうか?
なぜ大晦日に鐘をつくのでしょうか?
煩悩の定義は古代インドで書かれた仏教のお経に書いてあります。
煩悩と除夜の鐘の不思について簡単に紹介します。
煩悩とは
ご存じのとおり「煩悩」とは仏教の言葉。仏教用語は古代インドの言葉サンスクリット語が元になってることが多いです。
煩悩はサンスクリット語ではKlesa(クレーシャ)といいます。
意味は「心を乱し損なうもの」です。
人の心を惑わすもの。
人の心を煩わすもの。
人の心を悩ますものです。
仏教では悟りを開くことが目標ですから、悟りを邪魔するものは煩悩なんです。
大きく分けると煩悩は三種類あるといいます。
これを三毒、三惑といいます。
その三つとは。
・貧(とん) むさぼること。貪欲なことです。
・瞋(しん) 目をむいて怒ること。嫌悪、悪意の意味もあります。
・痴(ち) 無知でおろかなこと。
ちなみに痴のことをサンスクリット語ではmoha(モーハ)といいます。
モーハを漢字に訳したときに「莫迦」「莫何」「莫訶」となりました。日本に伝わり更に同じ発音の「馬鹿」という字になりました。つまり無知で愚かなことが「馬鹿」。そうなんですね。「馬鹿」もともとは仏教用語だったんです。
煩悩はなぜ108もあるの?
人間は六根という6つの感覚をもっています。
目・耳・鼻・舌・身・意
それぞれの感覚器官は六境というそれぞれの現象を感じ取ります。
色・耳・香・味・触・法 です。
六境とは現代科学でいう視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に意識を加えたものです。現代人と同じ知識が古代人の考えた仏教にはあったんです。驚きですね。というより現代人の知識は先人達が知識を積み重ねた結果ですから。当たり前なのかもしれませんね。
ちなみに執着を捨て六根を清らかにすることを 六根清浄(ろっこんしょうじょう)といいます。
そしてそれぞれの感覚は三つの受け止め方をします。
好・平・悪
これを三不同といいます。
感覚器官から入った感じ方にはもともとは善も悪もありません。でも煩悩のある人間はどうしても好き、嫌い、普通という感情が産まれてしまうんですね。
感じ方の程度には
染淨 の二つに別れます。この二つを「ぜんじょう」といいます。
染は汚れたこと。
淨は汚れてないこと。
そのすべては過去・現在・未来と続きます。これを三世といいます。
六根・三不同・染淨・三世をかけ合わせます。
6 ✕ 3 ✕ 2 ✕ 3 = 108
となるわけです。
だから煩悩は108もあると言われているんですね。
別の考え方もあります。
お経によっては染淨の代わりに三受という考え方を説いてるものもあります。
三受とは
楽 楽しいと感じること。
捨 楽しくも苦しくも感じないこと。
苦 苦しいと感じること。
悟りを開いた人でも感覚器官は外からの刺激を感じます。でも感覚器官からの刺激を受け取るのは心です。感覚器官から伝わる刺激に対していちいち「いい」「悪い」「楽」「苦しい」「普通」と判断をするのが煩悩のある人なんですね。
六根・三不同・三受・三世の組み合わせで
6 ✕ (3 + 3 )✕ 3 = 108
となるわけです。
また別の考え方もあります。
1年は12ヶ月。1年は24節気。72候があります。
そこで12+24+72=108です。
24節気や72候は中国で産まれた考え方なので仏教本来の考え方とはちよっと違いますね。
仏教では煩悩の種類を細かく分けて考えていたことがわかります。
除夜の鐘は108の煩悩を消滅させるため
仏教では本来は煩悩は自分の努力で克服するものでした。でも悟りを開いた人はともかく、多くの人達は悟りをひらくことはできないまま生きてます。そんな人達を救おうというのが「大乗仏教」。
大乗仏教の伝わった古代中国の「宋」で除夜の鐘が始まりました。
除夜の鐘とは、1年間の煩悩や罪を消すために鐘を鳴らします。
除夜とは「古い年が押しのけられる」という意味があるんです。
108回鐘をつくのは日本では鎌倉時代に始まりました。最初は禅寺が初めたようです。今と違って毎日、朝と夕に108回鳴らしてました。毎日とはすごいですね。つく方も大変ですが、禅寺の周りも毎日鐘を聴こえるので賑やかだったでしょう。
さすがに毎日はやりすぎだということで室町時代には大晦日だけになりました。
現代では108回にこだわらず鐘をつきに来た人みんなが鐘をつくこともあります。僧侶が108回つくところもあれば、参拝者が交代でつくところもあります。
お寺によって違うのでそこはそのお寺のしきたりに従いましょう。
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