明智光秀が信じた神様仏様

明智光秀

戦国時代の武将は神仏を信じました。どんなに兵力を集め、情報を集めてて素晴らしい作戦をたてても最後は時の運で勝敗が決ることがあるからです。まさに人事を尽くして天命を待つ。の言葉通り、人としてできるだけのことはやったらあとは人を超えたものの力に頼るしかない。と考えていました。

2020年(令和2年)の大河ドラマの主人公で話題の明智光秀もその一人です。光秀にはニヒルな男のイメージがあるかもしれません。頭のよい冷静な人で策略家だったともいいます。しかしそんな彼も神様仏様を信じて神仏の加護に頼りました。

明智光秀が信じた神様仏様を紹介します。

目次

フロイスの語る光秀は神仏を信じていた

そもそも明智光秀は神様仏様を信じていたの?と疑問に思うかもしれません。

明智光秀といえば本能寺の変で織田信長を討った謀反人です。
「主君を裏切るような人なんだから神様仏様は信じていないんじゃないの?」と思うかもしれません。

たしかに信長と親しかった宣教師ルイス・フロイスは光秀のことを、あまり良くは書いてません。「己を偽装するのに抜け目なく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」などとと書いています。これが書かれたのは光秀の死後です。

でもフロイスたち宣教師は戦国時代の日本の習慣、武士がどういうものかよく知りませんよね。誤解や偏見が多いのも事実です。しかもフロイスはキリスト教に協力的な人には好意的に書き、キリスト教に協力しない人は悪意的に書きます。なにしろ仏教を悪魔と書く人ですからね。

確かにフロイスは素晴らしい観察力を持っています。彼の記録を絶賛する歴史研究家は多いです。でも彼の記録は偏見が入りすぎています。これは立場の違いですから仕方ないです。だから読む方もそれを理解しないといけません。

それに光秀は、イエズス会の保護者だった織田信長に謀反をおこして死に追いやりました。フロイスにとって光秀は悪魔そのものですよね。悪く書くのも当たり前です。

そのフロイスは、光秀が何を信じていたのか書いています。
「悪魔とその偶像の大いなる友で、イエズス会には冷淡であるばかりか悪意を持っていた」

ここだけ読むと光秀は悪魔崇拝者なのかと思うかもしれません。もちろん日本には悪魔崇拝はありません。

フロイスの言う悪魔とは仏や神道の神のことです。悪魔の偶像とは仏像です。

つまり。光秀は仏教や日本の神様を信仰していました。仏像も大切にしていたようです。

その一方で、光秀がキリシタン弾圧をしたという記録はありません。光秀は内藤貞弘(ジョアン)らキリシタン大名と戦ったことはありました。それは彼らが信長に従わないからです。キリスト教を信じていたから城を攻め落としたのではありません。

では光秀は何を信じていたのでしょうか?

光秀が信じた神様や仏様

光秀が戦勝祈願した愛宕山は戦いの神

愛宕山

本能寺の変の前。天正10年(1582年)5月27日。光秀は愛宕山(京都市右京区)に登りお堂に一晩籠もりました。一晩一睡もせずに戦勝祈願をしたのです。

何が何でも成功させたいと願っていたんですね。

光秀は信長から毛利と戦う秀吉の援軍として中国地方に出陣を命令されていました。周囲の人からみれば中国地方での戦勝祈願とうつったでしょう。

現在は「愛宕神社」となっている愛宕山。古代から霊山として崇拝された山です。平安時代に修行道場が造られ、山岳信仰の修行場として有名になりました。御祭神は愛宕権現です。

愛宕山は地元の人々には「火防の神」として信仰されています。火事や火の災害を防いでくれる神様です。

神仏習合の時代には愛宕権現は「勝軍地蔵」と同じ神でした。戦国時代の武将にとって愛宕権現は戦いの神だったのです。ですから戦国武将の中には愛宕権現を崇拝する人がいました。直江兼続が兜に「愛」の前立をつけていたのは有名です。あれは愛宕権現の「愛」なんですね(異説あり)。

愛宕山にあった勝軍地蔵は現在は金蔵寺(京都市西京区大原野)に移されています。

光秀が愛宕山に登ったのは本能寺の討ち入り前だけではありません。丹波平定の最中も合戦をする前には愛宕山で戦勝祈願をしていました。光秀にとっては大切な場所でした。

本能寺の変の前も光秀は愛宕山に登りました。お堂に籠もった後おみくじを3回ひきました。1、2回めが「凶」だったから3回も引いた。それで「吉」を出したのだと言われます。でも当時はそういう作法があったようです。「三顧の礼」ではありませんが、3回行うのは験担ぎのようなものです。

既に信長を討とうと考えていたとは思います。でも迷いがあったかもしれません。愛宕山の神の後押しを得て「信長を討つ」と決心がついたのでしょう。

本能寺の変の前には八幡神に戦勝祈願

愛宕山で戦勝祈願した後。亀岡城に戻り軍を率いて出陣しました。京に向かう途中、亀岡の鎮守神 篠村八幡宮(京都府亀岡市)に立ち寄って戦勝祈願をしました。表向きは中国地方の援軍として出陣です。部下たちも光秀の本心は知りません。

八幡神は戦いの神として武士に人気があった神様です。鎌倉幕府を開いた源頼朝が深く信仰したので、それにあやかって武士の間に八幡信仰が広まりました。

その後、老ノ坂を越えて京に向かいました。その道のりは足利尊氏が六波羅探題に討ち入ったときと同じ。六波羅探題は鎌倉幕府の京都での拠点です。光秀は室町幕府に仕えていたこともあります。教養人ですからその知識もあったでしょう。もしかしたら光秀は鎌倉幕府を倒し室町幕府を作った足利尊氏に自分の姿を重ねていたかもしれません。

地蔵菩薩を信仰していた?

勝軍地蔵に戦勝祈願していたことはすでに書きましたが。ほかにも念持仏として地蔵菩薩をもっていたといわれます。廬山寺(京都市上京区)にある地蔵菩薩像(非公開)がその念持仏だといわれます。

将軍地蔵は兜をつけた姿で表現されます。でも公開されている画像をみると普通の地蔵菩薩です。

廬山寺公式サイト

勝軍地蔵とは別に地蔵菩薩も信仰していたようです。

地蔵菩薩は六道に生きるものを救う菩薩。とくに地獄におちた人を救うと信じられていました。慈愛の菩薩です。

でも「戦国武将が戦いの神を信じるのはわかるけど、戦う武将が地蔵菩薩を信じるのはおかしい」と思う人もいるかも知れません。

ところがぜんぜんおかしくないんです。戦国時代の武将は戦いの神と往生の仏を両方とも信仰していました。この世のご利益は神、あの世での救いは仏。と棲み分けしていたのです。

戦場ではいつ命を落とすかわかりません。そこで武将たちは戦場に持念仏を持っていって祈願していました。もし運悪く討ち死にした時は地獄に落ちないように仏に救ってもらおうとしたのです。持っていく仏像は人によって違います。平安時代以降、浄土信仰が流行っていたので阿弥陀仏を持っていく人が多かったようです。明智光秀は地蔵菩薩を頼りにしていたのようですね。

神の力を頼って加持祈祷を依頼

明智光秀というと知性的で合理主義者といわれます。加持祈祷なんて信じない。と思うかもしれません。

ところが明智光秀は妻が病になったときに吉田兼見に祈祷を依頼しています。

吉田兼見の日記によると、天正4年10月(1576年)光秀の室(妻)が病に倒れました。光秀は病気が治るように兼見に依頼しました。兼見はお守りをもって光秀の家を訪問してお祓いを行いました。お祓いの効果があったのか光秀の室は回復。10月24日、光秀は感謝して兼見に銀子一枚を渡しました。

ところが西教寺の記録では光秀の妻・煕子が11月7日に亡くなっています。

兼見がお祓いした「光秀の室」と西教寺の記録にある「煕子」が同一人物なのかはわかりません。でも時期的には同一人物のようにも思えます。

ただし山崎の合戦で光秀が秀吉に破れた後、坂本城落城とともに妻子が命を絶ったという話もあります。

吉田兼見は吉田神道の神主

ところでこの吉田兼見は公家で吉田神社(京都市左京区)の神主。吉田家は吉田神道の宗家です。織田信長や後に天下人になる豊臣秀吉とも親しくして朝廷と武家の橋渡し役をしている人です。吉田神社は江戸時代になると神官の免許を発行する権限をもちます。室町~江戸時代の神道界ではかなり影響力のある家です。

光秀とは特に親しくして光秀が個人的にお祓いとかを依頼することもありました。

光秀も神職のお祓いの効果を期待していた。ということですね。光秀は意外と信心深いのです。

比叡山焼き討ちで燃えたお寺を復興

織田信長といえば比叡山焼き討ち。明智光秀は信長の命令で比叡山焼き討ちに参加しています。とくに反対した様子はありません。信長の命令を実行しました。と書くと光秀はひどい人物かと思うかもしれません。

でも光秀自身は仏教を信じていました。織田信長に仕える戦国武将ですから比叡山焼き討ちをしろと言われれば従うしかありません。

比叡山焼き討ちの後、光秀は比叡山が持っていた広大な領地のうち志賀郡(滋賀県大津市の琵琶湖の西側)を褒美としてもらいました。その土地に坂本城を建てます。当時は有力な神社仏閣はめちゃくちゃ広い土地(荘園)を持っていました。そして領内に住む村人から年貢を集めていました。比叡山ともなると戦国大名並みの領地と武力をもっていたのです。その大勢力が織田家と敵対しました。

確かに信長のやったことはひどいです。光秀が信長に従ったのは事実です。

でも戦国時代の比叡山を今のお寺と同じに考えることはできません。信長が行ったのは武装勢力との戦闘です。

現代でいえば、アルカイーダやISとの戦闘がイスラム教への弾圧ではないのと同じです。

光秀は比叡山焼き討ちで燃えた西教寺など領内のお寺の再興も助けました。そして西教寺を明智家の菩提寺にします。明智家の墓や妻・煕子の実家・妻木家の墓があります。西教寺は天台宗の寺(現在は天台真盛宗)ですが阿弥陀信仰もとりいれたお寺です。光秀はこの寺を菩提寺にしたのですから仏教や天台宗が嫌いだったわけではありません。平和的な宗教としての仏教は信仰していたのです。

戦場で人を殺めるので極楽に行けないと考え、阿弥陀信仰もしていたのかもしれません。

明智光秀と神様仏様のかかわりは

・愛宕山に一晩籠もって戦勝祈願。
・本能寺討ち入りの前には篠村八幡宮で戦勝祈願。
・地蔵菩薩を念持仏にしていた。
・吉田兼見(吉田神道)にお祓いをお願いしたことがある。
・比叡山焼き討ちで燃えた寺の復興を助けた。

・仏教や神道を信じていた。
・イエズス会には恨まれている。

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