お盆とお中元のはじまり

精霊流

 

「盆と正月が一度に来たようだ」ということわざがあるように、盆と正月は対になるものとして考えられてきました。

大昔には一年を半分に分けて考える風習がありました。漢の時代の歴史書には「倭人(古代の日本人)は年の数え方を知らない、春と秋を数える」とあります。暦がなかった時代は現代の感覚と違って1年が半分しかありませんでした。ちなみに古代の天皇が驚くほど長寿(日本書紀では神武天皇は127歳)なのは1年の数え方が違うためです。

この時代には年の始まりには祖先を祀っていました。

暦(太陰暦)が伝わり1年が12ヶ月になっても、一年を前半と後半に分ける考えは残りました。

前半の始まりが正月、後半の始まりが盆です。

盆は旧暦7月15日。7月の十五夜(満月の日)です。

7月は1年の後半の最初の月になります。後半最初の満月の日が7月15日なのです。旧暦は月の満ち欠けをもとに数えているので旧暦7月15日は必ず満月になるんですね。

正月は祖霊を年神としてお迎えしてお祀りしました。
盆には祖霊をお迎えしするとともに、生御魂(いきみたま)に対しても礼を尽くしました。生御魂とは生きてる祖霊。つまり両親のことです。両親に感謝を伝え、お礼の品(盆礼)を贈るしきたりがありました。

正月に祖霊をお迎えする習慣は明治以降になると初詣という習慣に変わります。
お盆に祖霊をお迎えする習慣は現代まで残りました。

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お盆と中元の起源とは

お中元の起源。盆礼

正月にはお世話になった人のところに挨拶に行きます。日頃の感謝と新たな年の抱負を抱いて新年周りにする習慣がありました。

同じように、盆にも親、仲人、師などの目上の人を訪問して日頃の感謝を伝え贈り物をする習慣がありました。盆に生御魂に感謝をささげるしきたりがもとになっています。盆礼といいます。

盆礼に生御魂に捧げる品は生飯(さば)といいます。盆礼にはそうめん、麦粉、鯖(サバ)、鰤(ブリ)、鰶(コノシロ)などを贈ったといいます。

稲作の伝来前は、麦が神への捧げ物でした。麦粉を贈るのはそのためです。

魚の鯖(さば)を贈るのは、生飯(さば)と発音が同じだからです。縁起をかついで生飯として鯖を贈るようになりました。

現代人からみるとダジャレのようですね。でも言霊を信じていた昔の人にとっては真剣にやっていたのです。

素麺を夏に食べる理由

7月には素麺を食べる習慣があります。現代ではさっぱりして食べやすいからという理由で素麺を食べる人が多いと思います。でも素麺を温めて食べてはいけないという決まりはありません。

夏場に素麺を食べる理由は他にあるのです。

素麺は昔は「さくめん」と呼ばれていました。「さく」とは「索」つまり縄のことです。「麺」とは小麦粉を練って作った食べ物。現代ではひも状の食べ物を麺といいますが、もともとは形は決まっていませんでした。

「縄のような麺」だから「索麺:さくめん」。「さくめん」がなまって「さうめん」になり「そうめん」になりました。「素麺」の「素」は当て字です。もともとの意味では、素麺、冷麦、うどんもすべて索麺なんです。

古代中国の伝説上の皇帝・高辛子(かうしんし)の子が7月7日に亡くなり、鬼(悪霊)になって熱病をはやらせました。その子が生前好物だったのが索餅という食べ物でした。索餅(さくべい、むぎなわともいいます)は現代の花林糖のような食べ物です。保存食ともお菓子ともいいます。

索餅をお供えすると祟が収まったことから、病除けのまじないとして7月に索餅を食べる習慣ができました。その後、索餅は素麺になり。7月に素麺を食べる習慣につながったのです。

 

お中元の名前の由来

夏にお世話になった人に贈り物をする習慣があります。お中元ですね。

そのお中元のもとになったのが盆礼です。

お中元という名前の由来は道教にあります

道教では玉皇大帝という最高神がいます。天の神、天帝ともいいます。

玉皇大帝の次に偉いのが三官大帝です。人間と龍神の娘との間に生まれた三人の兄弟です。三人共優れていたので神によって世界を治める神に選ばれました。

長男は1月15日生まれ。上元一品の位。天官賜福大帝といいます。天界を支配して福を与える神です。

次男は7月15日生まれ。中元二品の位。地官赦罪大帝といいます。地上を支配して罪を赦す神です。

三男は10月15日生まれ。下元三品の位。水官解厄大帝といいます。水界を支配して厄を解く神です。

神の誕生日を、上元、中元、下元とよび、日頃の罪を許してもらい、厄を払ってもらい、幸せになるように祈りました。

中元とは7月15日。

時とともに盆が一年の始まりという意味は忘れ去られ、道教の考えとあわさって盆礼はお中元になったのです。

仏教の盂蘭盆会

仏教が伝わってくると盆の考えも変化しました。

仏教には盂蘭盆会という行事がありました。しかも盂蘭盆会も7月15日でした。

盂蘭盆会はサンスクリット語の「ウランボン」を漢字にしたもの。
ウランボンには「吊るす、逆さ吊り」という意味があります。

つまり逆さ吊りにされるくらい苦しんでいる死者を救うための行事が盂蘭盆会でした。

盂蘭盆会の始まり

マガダ国のバラモンの子・目犍連(モクケンレン、通称:目連)は釈迦の弟子の一人でした。漢字の名前がついていますがインドの人です。お経を漢字に訳したときに名前も漢字表記になったのです。

目連は37歳のとき修行中に息を引き取りました。

あの世に行った目連はすでに他界している母に会いたいと思い閻魔王を訪れました。閻魔王は目連を母に会わせましたが、母は地獄で苦しんでいました。目連の母は生前、子供が賢いのを自慢して人を侮っていたため地獄に落とされていたのでした。結局、目連は母を助けることはできませんでしたが、閻魔王に別れを告げてこの世に戻ってきました。

なんと目連は生き返ったのです。

おそらく目連は臨死体験をしたのかもしれませんね。

甦った目連は、僧を集めて法華経を書き写して母の供養を行いました。すると紫の雲が現れ「お前のおかげで地獄から逃れて極楽浄土にいけます、ありがとう」という母の声が聞こえました。

目連は毎年7月15日になると祭壇を作って供養を行いました。

これが盂蘭盆会の始まりだといわれます。

盂蘭盆会は仏教とともにインドから中国、そして日本に伝わりました。

日本では推古天皇14年(606年)に初めて行われたと記録されています。

聖武天皇の時代、天平5年(733年)から宮中の年中行事として毎年行われるようになりました。

仏教が国内に広まると、民間でも盂蘭盆会が行われるようになりました。

もとからあった「盆」や「中元」と一緒になって「お盆」の行事が定着したのです。

盂蘭盆会は地獄で苦しんでいる死者を供養するためのもの。盆は祖先の霊をお迎えして送る行事。微妙にちがいますが、どちらも7月15日で「ぼん」という呼び方が似ていたために同じものになってしまいました。

現代では太陽暦を採用しているため8月中旬にずれています。旧暦の時代には7月15日に行われていました。

 

お盆の行事

13日に先祖の霊を迎えるために「迎え火」をたきます。

霊は火を炊いた煙にのって盆灯籠の明かりをたよりにやってくるといいます。

キュウリの馬とナスの牛を飾ります。

祖先の霊が馬に乗り、荷物を牛に乗せて帰ってくるからです。祖先の霊をお迎えする家には盆棚(精霊棚)がもうけられます。盆棚には真菰(まこも)をしき、ほおずき、萩、桔梗など季節の草花をかざります。祖先の霊は盆棚に用意された真菰の上にとどまります。

祖先の霊は13日にやってきて16日に帰っていきます。

16日には祖先の霊を送るために「送り火」をたきます。

盆棚に備えられたものは舟にして水に流します。これが灯篭流しです。精霊に備えたものに明かりをつけて先祖の霊を海の彼方に送るのです。

送り火で最も規模が大きく有名なのが京都の五山の送り火です。

次は五山の送り火について紹介します。

京都五山の送り火の由来と意味

 

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