人は死んだらどうなるの?日本人の死生観

白山 神社参拝のしかたと神道
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人は死んだらどうなるのか?どれは民族や時代を超えて大きなテーマでした。

私達日本人の祖先も死後の世界について考えを持っていました。たしかに現代の日本人の死後の世界のイメージは仏教の影響が大きいです。仏教で描かれる死後の世界が具体的で分かりやすいからです。そのため多くの人々に受け入れられたのでしょう。でも日本人が昔からもっていた世界観も残っています。むしろ仏教の世界観だと思っているものが実は日本古来の考え方だったりします。日本人のもつ死後の世界のイメージについて紹介します。

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日本人の考え方の基本は精霊信仰

縄文時代の日本人は動物や植物、自然現象にも魂が宿ると考えていました。もちろん人間にも魂があります。

様々な動植物に魂あるという考えはアニミズムといいます。アニミズムは日本だけではありません。古代には世界中にあった考え方です。精霊信仰ともいいます。精霊と聞くと妖精のような存在を思い浮かべるかもしれませんが、それは西洋の考え方です。精霊とは魂や霊的な存在のことです。

古代日本では精霊のことを「カミ」「タマ」「モノ」などと表現します。

カミとはもちろん神のことです。タマやモノも神に近い霊的な存在です。神様の名前にタマやモノが付いているのはそのためなのです。

アニミズムでは精霊は善でも悪でもありません。ときには良いこともあるしときには悪いこともある。だからなだめたりお祀りして、危険がないようにしなければいけません。

アニミズムでは人間にも魂があります。人が死ぬと魂は肉体を離れます。問題は肉体から離れた魂がどうなるかですよね。

縄文人の考えた死後の世界

肉体を離れた魂は自然の中にとどまります。新しい命が誕生すると再び肉体に宿って産まれてくるのです。しかし時には死者の魂が生きている人に災いを起こすこともありました。だから縄文人は埋葬方法には気を使いました。縄文時代の墓地埋葬では遺体を折り曲げて膝を抱えるような形で埋葬されました。こうすることで使者の魂が生きている人に災いを起こすことを防げると考えたのです。

では自然界に出てしまった魂が新しい肉体を持つまではどうしてるのでしょうか?

死者の魂は山に行きカミになる

死者の魂はやがて山に集まります。魂が集まる場所が地域ごとにあります。その地域で目立っている立派な山がそうです。山に集まった魂は一つに合体します。そして魂が集まったものが「カミ」です。人間は死んだら神様になるのです。

魂が合体して一つになるといっても「個人を尊重する」現代人には理解し難いかもしれません。

でももともとは一つの魂だったものが分離してこの世に肉体をもった者が人や動物。肉体が滅べば魂は元の場所に帰っていくのが古代日本人の考え方です。

古代の人々は死者の魂が集まる場所に入っていはいけないと考えていました。そこは神様の居場所だから人間がいるべきところではないと考えたのです。

日本各地には霊山があります。青森県の恐山も縄文時代の信仰が残る場所です。奈良県の大神神社のように三輪山が御神体になっているところもあります。それは山が神の住む場所だったからです。他にも日本各地に霊山があるのは山が祖先の魂が集まる場所だったからです。

地域によって魂の集まる場所は違います。海に近い地方では祖先の魂が行くのは海の彼方の世界です。

人の魂はカミとなり死後も子孫を見守り続ける

神になった人の魂は子孫を見守り続けます。祖先の魂は普段は山にいて見守っています。でも時には人里に降りてきます。カミが家にやってくる日。それがお盆です。

お盆は仏教の行事だと思っている人が多いと思います。でもインドで産まれた仏教にはお盆はありません。たしかに仏教には地獄の人々を慰める「盂蘭盆会」という儀式はあります。でも本来はお盆とは別物です。お盆は古代から続く日本の風習なのです。

でもお盆と盂蘭盆会は名前が似てますし、死者に関係する行事ですし、行っている時期もほぼ同じ。だから仏教を布教する過程で一緒になったのです。

カミは生きている人を助けてくれる

また、人々は困ったときには山にいるカミに助けを求めました。災害を鎮めるとき、豊作を祈願するとき、様々な場面で人々はカミに祈りました。人々の祈りを聞いたカミは様々な形で助けてくれます。人の姿をとって現れることもあれば、動物の姿で現れることもあります。自然現象を起こすこともあります。豊作といった目に見えるご利益の形でカミの力が現れることもあります。

しかしカミは常に助けてくれるわけではありません。特別なときだけです。

だから普段は人々は自分の力で努力しなければいけませんし、生きている者同士で助け合って生きなければいけないのです。

動物にもカミがいる

またカミは人間の魂の集まりだけではありません。動物には動物の魂、魚には魚の魂があり、それぞれがカミとなってこの世を見守っています。人間のカミと動物のカミには優劣はありません。対等なのです。

猪を獲物として得たなら猪のカミに感謝し、魚が豊作になったら魚のカミに祈って自分たちが生きていくための獲物を分けてもらったのです。

弥生人の考えた死後の世界

狩猟生活を行っていた日本に稲作が伝わります。弥生時代の始まります。弥生時代には人々は大きな集落を作って暮らすようになりました。稲作は大勢の人々が協力しないといけないからです。また収穫した穀物を保管して守るためにも大勢でいたほうが有利でした。そうなると人々は集団の一員としての自覚が強くなります。

弥生人も縄文人と同じように動物や植物、自然には魂があると考えました。人間にも魂があって、死後は魂は肉体から抜け出ていくのは同じです。

氏神の誕生

肉体から離れた魂は祖先の魂と一緒になってカミになります。縄文人の考えと同じです。ちょっと違うのは「祖先が同じ人同士の魂が一緒になる」または「同じ集落に住む人々の魂も一緒になる」ことです。祖先の魂が集まったカミが「氏神」です。氏神という呼び方は後の時代にできたものですが、祖先の魂が集まってカミになる。という考えはこの頃できたと考えられます。そして氏神の恩恵を受けている人々が氏子です。氏神は魂の集合体ですから個人としての名前がありません。現在では氏神にも様々な名前があります。例えば皇室の氏神は天照大御神です。でもそれは後の時代につけられた名前です。

氏神は人間と他の神を繋いでくれる

氏神は地域に住む人間(氏子)を見守るだけではありません。人と他の神との仲介役もしてくれます。氏神は植物の神や動物の神にはたらきかけ、生きている人が必要な食べ物を分けてもらうように助けてくれます。だから特に農耕の神でなくても氏神に豊作祈願をするのです。漁業を生業としている村の氏神なら魚の神にお願いして氏子が困らないようにしてくれます。氏神は様々な神と仲介してくれる存在なのです。

神の住む常世の国

神となった人の魂は常に人里にいるわけではありません。神の住む場所は常世(とこよ)の国です。常世の国は海の向こうの遠いところにあります。弥生人にとって死後の世界とは常世の国なんです。

ふだん常世の国にいる神は春には人里近くの山にやってきます。山にいる神は子孫を見守ります。お盆には子孫の家にやってきます。そして秋には常世の国に帰ります。やはり山は聖なる場所なのです。山の麓に儀式を行う場所がつく作られました。それが神社のもとです。

春と秋といっても現代の春と秋の感覚とはちょっと違います。春の祭り(祈年祭)から秋の祭り(新嘗祭)までが神のいる期間です。冬の間は氏神はいないとされました。だから冬の間は作物はあまり育たないと考えられたのです。

「厳しい季節なのは神がいないからだ」という考えは天照大御神の天岩屋戸隠れの神話にもみられます。

神様にずっといてほしい人々が行なったこと

しかし仏教が伝来すると「神(飛鳥時代の日本人にとって仏は外国から来た神でした)が形となって存在する。神が宿った物を安置する建物を作ってもいい」ことを知ります。それなら「日本古来の神様にもずっといてもらおう」ということで、人々は神が常駐する場所を作ってそこに神様をお招きしました。それが神社です。したがって神様にとって神社とはこの世に滞在するときに使う仮住まいの宿のようなものです。

黄泉の国との違い

古事記には黄泉の国や根の堅州国といった世界が登場します。死後の世界のようにも思えますが。ちょっと違うようです。黄泉の国と根の堅州国は地下にあって地上世界とつながっています。地上世界とは別の神が治める地下世界なのです。どういう場合に黄泉の国に行くのかはよくわかりません。黄泉の世界の住人になってしまうと現世には戻れなくなります。生まれ変わりがある常世の世界とは違う世界です。普通は人間が死後に行くのは常世の国です。

死者は神になるのが日本人の生死観

日本人が古来から持つ考えでは死者の国とはカミの世界と同じでした。カミの世界では人々の魂はひとつになってカミの一部となります。そして新しい命が産まれるときにその一部から別れて肉体に宿るのです。人間を自然の一部。社会の一部として考えるのが大きな特徴です。

日本古来の考え方は神道の教えとして現代にも生きています。神社が山の近くにあったり、神道では死者が神として祀られたり、神様はいくらでも分離できるという考えは日本古来の考え方と同じなのです。

 

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