私達日本人が古くから信仰してきた神道では信仰の対象を 神(カミ)とよんでいます。普段は意識することなくなんとなく神とは神様とかよんでいますよね。でも現代人が信じる神のイメージには西洋の神(good)の影響が混ざったりして様々なイメージに変化しています。
日本人が信じてきた神とはどんな存在だったのでしょうか。
神の由来
なぜ「カミ」とよぶのか実はよく分かっていません。
上を意味する「カミ」、隠り身「かくりみ=見えないもの」の略、など。様々な説があります。でもどれも「これだ」といえるような有力な説はありません。
古い時代には「カム」とよんでいたともいいます。
でも「カミ」を「神」と書く理由は分かっています。
神という字はもともとは「神」と書きました。
「神」は「示」と「申」からできています。
「示」とは祀りのときに神に捧げる生贄を置く台、祭壇を意味します。
「申」は稲妻や雷、雷がものを震わせることを意味します。
漢字の神(シン)は、雷のようなとても恐ろしい自然の力を意味するのです。
漢字を取り入れた祖先たちは「カミ」を表現するのにピッタリだということで「神」をカミの意味に使ったのです。
古代には雷を「カミ」と呼ぶこともあったようです。やはり恐ろしい自然の力をカミとよんでいたのでしょう。
神様の特徴
日本の神様は外国の神様とは違った特徴があります。
数が多い
「八百万の神々」とよばれるように、神道にはたくさんの神様がいます。
現代の世界ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教。
仏教、ヒンズー教などの多神教があります。
日本の神道は多神教です。
もともと世界中の多くの地域では多神教を信じていました。
日本に限らず、古代の人々は自然界の様々なものに神の存在を感じたからです。
しかし時代が流れるにつれて特定の強い神だけ信じるようになりました。一神教では神と信者が契約することで神の加護が得られます。信者になれば絶対的で万能な神の加護が得られるかわりに、信者は神との契約を守らなくてはいけません。一神教は戒律が厳しいのが普通です。
神は姿をもたない
世界の多くの多神教では神には姿があるとされています。像や絵画によって神の姿が表現されました。像を置いて崇拝することもよく行われました。
ところが神道には神の姿はありません。
古代日本では「神は姿をもたない」と考えられていたからです。もともと自然の力そのものですから、形をもたないのは当然です。
仏教が伝来するとその考えにも変化が出ました。神の像を作ったり、絵画にしようという試みが行われました。神は擬人化されて描かれるようになりました。神道の神は説明のために擬人化されることはありますが、もともとは形をもたないものだったのです。
神は依代に宿る
姿をもたない神は自然界の様々な物を「依代(よりしろ)」として宿ります。我々の世界に降臨した神は様々な力を発揮するのです。
神が宿るものはなんでもかまいません。古代には岩、山など自然のものでした。古い神社では山が御神体だったり、岩が御神体のところもあります。山や岩は無機物の塊です。そこに神が宿ることで山や岩が神と同じになるのです。
後の時代になると鏡や剣、勾玉など人が作ったものにも神は宿りました。御神鏡が御神体の神社も多いですね。鏡はただの金属の塊ではありません。神様が宿っているから御神体なのです。
人にも神は宿ると考えられました。神を宿すことのできる人は「巫女」などとよばれました。
自然の物、人工物、生き物、依代は神がこの世で一時的に滞在するために宿るものですから神が宿るものは何でもいいのです。
鏡や剣などの人工物にも神が宿るという考えは、やがて物にも魂が宿るという考えになります。普段使っている道具でも長く使っていれば魂は宿るのです。人形でも愛着が強ければ魂は宿ります。
日本人は物に対する愛着が特に強い民族だといわれます。物を擬人化して親しみを持たせるのも得意です。
これらは「物にも魂が宿る」という考えが元になっているのです。
神とは怖い存在
古代の人々は、自然界の恐ろしい現象に対して何かの力や意思を感じました。それを「カミ」とよびました。
神事の前に唱えられる祓詞は「掛まくも畏き◯◯大神・・・」という言葉で始まっています。
「掛まくも畏(かしこ)き」というのは「心に思うのも、言葉に出して話題にするのも恐れ多い」という意味です。
「掛まくも畏き」という言葉は祓詞だけでなく多くの祝詞に出てきます。
古代の人にとって「カミ」とはそのくらい怖い存在、恐れ多い存在だったのです。古代日本人はカミの他にも、自然界の様々な精霊に対してタマ(魂)、チ(霊)、ミ(霊)と呼んでいましたが、カミはそれらの精霊とは別格の怖い存在でした。
カミは大自然の恐怖そのものだったのです。
神は恵みをもたらす存在
でも神は怖いだけではありません。
雨は田畑を潤し作物を実らせます。太陽の光がなければ真っ暗ですし、生物が行きていくのに必要です。雷は雨と一緒にやってくるので、雷も恵みをもたらすものと考えられました。
自然は怖い一面と、恵みの一面があります。神は大自然の力や意思そのものですから、神にも怖い面とやさしい面があるのです。
和御魂と荒御魂
神には怖い面と優しい面があります。正反対の性格が同じ神様にあるのです。
畏怖すべき荒々しい面を荒御魂(あらみたま)。
優しい穏やかな面を和御魂(にぎみたま)。
と呼びました。現在でも同じ神様なのに荒御魂と和御魂を祀っている神社があります。
両方の性格を持つ神様に対して、敬意を込めてお祭りしてきました。できるだけ神様のご機嫌を壊さないように丁重にお祀りします。そうすれば気分を良くした神様が協力してくれると考えたのです。
もともと恐ろしい力をもつ神様ですから味方にすればこれほど心強いものはありません。
神様は祟るもの
普段はおとなしくしていても、神様のご機嫌を損ねると人々に災いがおこります。
人々はこれを「祟り」として恐れました。
災害がおきたり、人間の世界に問題が起きると神の「祟り」だとして神の怒りを鎮めようと様々なことをしました。それが祭りの起源になっているものもあります。
火山の噴火、地震、落雷、洪水など。これらの災害も神の怒りと考えたのです。このような恐ろしい神を祟り神ともいいました。しかし祟り神は機嫌がよくなるとおとなしくなり人々に恵みをもたらせてくれます。祟り神とは怖いだけの存在ではなく、神様がもつ様々な性格のひとつなのですね。
自然界の神様だけではありません。人の魂も祟り神になると考えられました。もともと人間も自然界に生きる魂のひとつです。ということは、人間の魂も祟りを起こす可能性があるのです。
外国では神と人は区別されていることが多いです。でも日本では人の魂も神になります。神は唯一絶対的なものではないだけに、様々なものが神になる可能性を秘めているのです。
祟り神になった人間の魂は「怨霊」と呼ばれ恐れられました。人々は怨霊を鎮めるため様々な祭祀を行う一方で、穏やかになった怨霊に祈願をしてご利益を得ようとしました。
学問の神として人気の菅原道真、東京の守り神・平将門ももともとは怨霊です。これを「御霊信仰」といいます。
御霊信仰は平安時代から始まったと考えている人も多いのですが、もともと神様は祟るものです。たまたま都にいた有力者が祟り神(怨霊)になったのが平安時代だったというだけで、古代から祟り神信仰はあったのです。
怖い存在と恵みの存在両方を持つ神様の特徴がよくわかるのが御霊信仰なのです。
日本人の心に受け継がれた古代の神々
日本人が古代から信仰してきた神様は単純な善悪では考えられない複雑な性格をしています。古代の人々がもっていた自然に対する素朴な信仰が元になっているからです。
このような信仰は古代には世界中でありました。でも哲学的で厳格な宗教が普及すると忘れ去られていきました。
しかし日本では現在も息づいています。そして日本人の考え方や習慣の中にしっかりと受け継がれているのです。無宗教と思ってても知らない間にあなたの心に受け継がれているのです。
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