三種の神器とはどんな物?

三種の神器

歴代天皇の継承の証となるのが三種の神器。

三種の神器とは、八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、草薙の剣ともいいます)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま、八尺勾玉ともいいます)です。

歴代の天皇は三種の神器を受け継ぐとことで正当な天皇と認められました。

三種の神器について紹介します。

目次

三種の神器の伝説

なぜ天皇家が三種の神器を秘宝として受け継いできたのでしょうか?それは神話が元になっているのですね

鏡と勾玉は天の岩屋戸伝説から

鏡と勾玉は日本神話の天の岩屋戸伝説にでてきます。

須佐之男命は姉の天照大御神が治めている高天原に行きました、ところが須佐之男は高天原で大暴れ、ついに死者が出てしまします。悲しんだ天照大御神は天岩屋戸に閉じこもってしまいました。

太陽の神が隠れてしまったことで地上世界は闇に覆われ、生き物が育たなくなり、疫病がはやりました。困った神々は相談して天照大御神を天岩屋戸から出そうと作戦をたてました。

岩屋戸の前に榊を立て、祭壇に勾玉、鏡を並べました。そしてかがり火をたいて天宇受売命が踊りました。

岩戸に籠もっていた天照大御神は、外の賑やかさが気になって岩戸を開けて外を覗きました。差し出された鏡に映った自分の顔をよく見ようとして身を乗り出したところを天手力男命によって引っ張り出されました。そして再び世の中には光が満ち溢れるようになったのです。

このときの儀式に使われた鏡と勾玉は大切な宝となりました。

天叢雲剣は八岐の大蛇伝説から

天叢雲剣には別の由来があります。高天原を追放された須佐之男命が出雲の国を放浪していたとき。生贄になりそうになった娘を助けて、八岐の大蛇という怪物を退治しました。大蛇の尻尾から出てきたのが鉄の剣でした。須佐之男命はこの剣を高天原にいる天照大御神に献上しました。この剣が天叢雲剣です。

こうして三種の宝がそろいました。

天孫降臨

その後、須佐之男命の子孫が地上世界を開拓しました。

天照大御神と高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は地上世界を子孫に治めさせることにしました。邇邇藝命が天孫降臨するときに、天照大御神から渡されたのが三種の神器です。とくに鏡を天照大御神だと思って祀りなさい。といわれました。

邇邇藝命の子孫はやがて大和の大王(おおきみ)となり、その子孫が現在の天皇家に繋がります。三種の神器も皇位と共に受け継がれて天皇の証となったのです。

時代とともに変わる三種の神器

勾玉、鏡、剣は古墳からもよく出てきます。古代の王にとっても王の証のような物だったのでしょう。王たちを束ねる大王にとっても剣・鏡・勾玉を王権の象徴になりました。

遣隋使派遣以降は剣・鏡・璽が三種の神器として扱われたこともありました。律令国家の中国の影響を受けて玉璽が重要な宝になりました。

鏡は古代中国発祥の宝です。でも中国では鏡は宝物ではあっても王権の象徴ではありませんでした。中国では王権の象徴は玉璽なのです。

しかし日本では鏡は王権の象徴とされました。鏡が王の証とされたのは日本独自の理由があります。鏡は光を反射するものですから太陽神信仰と関係があると考えられます。

それに対して呪術的な意味の強い日本古来の勾玉は、律令時代あまり重要視されなくなりました。そのため日本書紀には三種の神器は登場しません。

平安時代になるとふたたび剣・鏡・勾玉が三種の神器としなりました。そして天皇位を継ぐために必要な宝になったのです。

三種の神器が存在するのは確かなのですが、実は天皇自身も見ることができない秘宝です。だから具体的にどんな形をしているのかほとんど誰も知らないのです。でも数少ない言い伝えからどのような宝なのか紹介しましょう。

八咫の鏡(やたのかがみ)は伊勢神宮の御神体

三種の神器の中でも別格の扱いを受ける秘宝中の秘宝です。天皇家というより日本の宝のようになってます。

オリジナルの八咫の鏡は伊勢神宮に祀られて御神体になってます。

日本神話では伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)という神様が鏡を造りました。伊斯許理度売命は後に天孫降臨に同行して鏡作部(かがみつくりべ)という職人集団の祖先となりました。

この伝説から、実際に鏡を作ったのは大王に仕えていた鏡作部という職人集団だったと考えられます。

天照大御神が「鏡を私と思いなさい」と邇邇藝命に告げたことから鏡そのものが天照大御神と繋がるための宝になったのです。

鏡の大きさは46~49cm

八咫(やた)というのは「大きい」という意味ですが、咫(あた)は長さの単位にもなってます。1咫=約18cm。ということは8咫=約144cmになります。流石に直径144cmの鏡はありえないでしょう。でも鏡の周囲の長さだと考えると直径は46cmくらいになります。この位の大きさの鏡なら存在しそうです。事実、昭和40年に福岡県の平原遺跡から直径46.5cmの鏡が出土しました。伊勢神宮に祀られている八咫の鏡もほぼ同じ大きさの鏡だと考えられています。

八咫の鏡そのものを見た人はいません。でも鏡を入れる容器の大きさは分かっています。その容器には内径一尺六寸三分(約49cm)と書かれています。とすると中に入っている鏡は49cmに収まる大きさなのは間違いありません。

なぜ皇位継承の儀式に鏡が登場しないの?

八咫の鏡は伊勢神宮の御神体。とすると宮中にはないのでしょうか?いいえ、八咫の鏡は形代(かたしろ=レプリカ)があります。

現在は八咫の鏡の形代は皇居の宮中三殿のひとつ賢所に祀られています。賢所は皇祖神をお祀りする場所。つまり宮中にある八咫の鏡の形代も御神体の役目をしているのです。

御神体ですから儀式に使うわけにもいきません。皇位継承の儀式には鏡は登場しないのです。

天叢雲剣は熱田神宮の御神体

天叢雲剣は”草薙剣(くさなぎのつるぎ)”ともいわれます。

もともとは八咫の鏡と一緒に伊勢神宮に祀られていました。景行天皇の時代、日本武尊は東国に遠征に向かいました。その途中に伊勢神宮に立ち寄って倭姫(やまとひめ)から天叢雲剣を譲り受けました。

焼津で火攻めに合ったとき周囲の草を薙ぎ払って火が燃え移るのを防いだことから「草薙剣」と呼ばれるようになりました。その後、日本武尊は尾張の美夜受比売(みやずひめ)に草薙剣を預けたまま戦いに行ってしまい命をおとします。その後、草薙剣を祀るために尾張氏が作ったのが熱田神宮です。

見ると命を落とす

天叢雲剣も見てはいけないことになっています。ところが江戸時代にこっそり見てしまった数人の神官がいました。長さは80cmほど、葉の先は菖蒲の葉よう、全体的に白っぽい色だったといいます。ところが見た神官は次々に病に倒れ命を落としました。天叢雲剣には凄まじいパワーがあるようです。

皇居にあるのは形代

天叢雲剣は熱田神宮の御神体になっています。ですから現在皇居にあるのは天叢雲剣そのものではありません。天叢雲剣の形代が作られ天皇家に伝わっているのです。

ところが天叢雲剣は源平合戦のときに安徳天皇と一緒に壇ノ浦に沈んでしまいました。源氏は神器を探しましたが、剣は見つかりませんでした。それ以降は伊勢神宮に伝わっていた宝剣を天叢雲剣の形代として使っています。

八尺瓊勾玉 皇居にオリジナルが存在する宝物

三種の神器の中で唯一オリジナルが天皇家に伝わる神器です。

勾玉というと、オタマジャクシのような形をした玉でできた宝物。勾玉の歴史は縄文時代まで遡ります。装飾品として柄荒れる一方で、古代には儀式に使われました。瑪瑙や水晶、さまざまな石、ガラス(古代にもガラスの製造技術はあります)で造られました。勾玉といえば翡翠(ひすい)のイメージが強いと思います。勾玉は基本的には大陸では見られません。しかし糸魚川翡翠の勾玉が朝鮮半島に伝来して王墓などの装飾品に使われていました。

古事記には「八尺の勾玉の五百津の御須麻流の玉」と書かれています。八尺は長い、五百津はたくさん、御須麻流はたくさんの物をつなげて輪にしたもの。という意味なので、神器の八尺瓊勾玉はたくさんの曲玉が連なった長いネックレスのような形をしていると考えられます。

曲玉を見てはいけない

八尺瓊勾玉も見ることはできません。ところが平安時代の冷泉天皇は勾玉を見ようとしました。箱をあけたところ中から白い雲のようなものが立ち上ったので慌ててみるのをやめたといわれます。

神器は神とつながるためのもの

神器はただの飾りや道具ではありません。神と繋がるための大切な宝物です。古代の大王は、世俗の人々を束ねる統治者であると同時に、祭祀を行う神職も兼ねていました。神と繋がる権利を持つのを証明するものが神器なのです。

神器は天皇から天皇に受け継がれます。鏡は皇居内でも御神体になってるので動かせません。新天皇が即位するときに行う「剣璽等承継の儀」では剣と勾玉、そして公務で使う玉璽を新天皇が受け取ります。

そうすることによって次の時代へと神器が受け継がれるのです。

 

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