素麺(そうめん)はあなたも熱い夏によく食べるのではないでしょうか?
熱くて食欲がないときには、するっと簡単に食べられる素麺は便利ですよね。
昔の人も熱い時期の仕事の合間に食べるお手軽な食べ物として素麺を食べていました。
でも素麺の食べ方それだけではありません。
7月7日の七夕の日に縁起物として食べる素麺もあるのです。
素麺をたべると熱病にかからない。
という言い伝えがあるからです。
平安時代の宮中儀式に由来があるようです。
素麺と七夕のかかわりを紹介します。
平安時代の宮中行事で食べた索餅
索餅と食べると熱病にならない
延喜式(927年完成)という宮中の儀式をまとめた書物には。索餅(さくへい)という食べ物が7月7日の七夕(しちせき)の節供にお供物になったとかかれています。
索餅とは奈良時代に唐から日本に伝わっった食べ物です。小麦粉と米粉を練って棒状にした食べ物。索(縄)の形をしていた餅(へい)なので索餅といいます。
柔らかい日本の餅(もち)と違い、中国の餅は小麦粉を練って固めた食べ物です。
日本では小麦で作った縄状の食べ物なので 麦縄(むぎなわ)とも呼ばれました。
宮中では唐で流行していた七夕(しちせき)の節供を旧宮中行事として行いました。七夕の節供では中国古来の故事にならって索餅を食べました。
その故事とは。
古代の帝の子供が7月7日に死んで、一本足の鬼(死霊)になって瘧(熱病)を流行らせた。そこで生前にその子供が好きだった索餅を供えて祟りを鎮めた。というもの。そこで七夕の節供では疫病除のおまじないとして索餅を食べるようになりました。
七夕の節供は日本に伝わり宮中行事として行われました。
日本では古来より7月には「お盆」や「たなばた」が行われていました。祖先の霊を迎えておもてなしする行事です。
平安時代には「七夕の節供」と「たなばた」が一緒になり、「七夕」は「たなばた」と読むようになりました。
宮中では索餅は内膳司という食事を作る部署で作られ天皇や臣下たちが食べました。宮中では正月の行事に食べたり様々な行事で食べられる縁起物になりました。神へのお供え物として使うところもありました。
「索餅はハレの日の食べ物」になりました。
疫病除のご利益を兼ね備えた縁起のいいごちそうだったのです。
索餅は平安京にある東西の市でも販売されました。
とはいっても平安時代はまだまだ高価な食べ物でした。
室町時代に素麺が誕生
宮中行事で食べられたハレの日の食べ物は素麺ではなく索餅です。
形はよく分かっていませんが小麦を練って作った縄状の食べ物でした。
小麦で作った麺も遣唐使によって伝えられたと言われます。
索餅が進化したのか、素麺の紀元は別の物なのかはわかりません。
平安時代から鎌倉時代に泣けて索麺(さくめん)というものが出始めるようになります。索とは太い縄のことですから縄状の麺類が広まり始めたようです。
索餅が索麺になったのか。別のところでできた索麺がたまたま文字が似ていたのかはわかりません。
縄状になった麺を意味する索麺は室町時代になると素麺と書かれるようになります。
室町時代になると索餅・索麺・素麺は区別がなくなってしまいます。
索餅は麺類ではありませんが、形も原料も似ている両者は次第に同じものと思われて言葉も混乱してしまったようです。
麺類としての素麺は室町時代には現在のようになったようです。
室町時代の素麺は茹でた麺を洗って蒸して温めて食べていました。
七夕と素麺
平安時代には宮中の七夕の節供で「索餅」が食べられていました。
室町時代になると七夕の節供で素麺が食べられるようになります。
やがて江戸時代になると庶民の間にも麺類が広まりました。「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」とも書かれるようになり。縁起物として素麺が食べられる習慣が広まったようです。
江戸時代になると七夕に素麺を食べる習慣が庶民にも広まります。
江戸幕府は五節句(1月7日・人日の節供、3月3日上巳(桃)の節供・5月5日端午の節供・7月7日七夕の節供・9月9日重陽(効く)の節句)を指定しました。
幕府が行うのですから大名も行いますし全国の武士たちも行います。やがて七夕は庶民にも広まりました。
細く長い麺を織物の糸に見立てて裁縫の上達を祈願する。という考え方も生まれました。
江戸中期には一部の行事を除いで索餅を食べる習慣は廃れます。
でも素麺は人々の間に広まり今に伝わっています。素麺を冷やして食べる。という習慣も江戸時代に広まったようです。
現代では七夕に素麺。という習慣はあまり残ってはいませんが。
江戸時代の人々の間には疫病除や願いを込めて素麺を食べる習慣がありました。
普段はなんとなく食べている素麺ですが。
実は疫病や習い事の上達を祈願を込めて食べる縁起のいい食べ物でもあったのです。
七夕関連の記事
コメント