織田信長は神になろうとしました。
少なくとも神のように人から敬われる存在になろうとしたし。「信長プロデュース」のパワースポットを作って人集めをしたいと考えていました。
その施設が安土城の敷地内にありました。
なぜ信長は髪になろうとしたのでしょうか。
信長が何を目指していたのか考えて見たいと思います。
織田信長が作った摠見寺
安土城は山上に店主・本丸・二の丸・三の丸を持つ大きな城でした。
安土城には摠見寺があります。
当時の城では敷地内に神仏を祀る場所を作るのは珍しくありません。でも山門・三重塔・本堂・鎮守・鐘楼堂など様々な施設を持つ大きな寺を城の敷地内に作ったのは織田信長だけです。現在はその一部が残っています。
しかも摠見寺は城下町と安土城天主の間にあります。安土城の入り口に寺があるので、信長に会いに行こうと思えば必ず摠見寺を通らなければいけないのです。
江戸時代から現代に至るまで摠見寺は織田信長の菩提寺になってきました。
ところが信長は自分の菩提を弔うため建てたのではありません。なにしろ信長は魂の復活や浄土を信じていません。人は死んだら無になると考えていました。
信長は無神論者・無宗教者ではありません。禅宗(特に臨済宗)の考えを支持していたのです。臨済宗では魂は永遠ではない・死ぬと無になると考えます。
では何のために摠見寺を建てたのでしょうか?
信長が作った現世利益のパワースポット
摠見寺は何のための施設だったでしょうか?
信長が生きていた時代の摠見寺は「現世利益」のための宗教施設なのです。
信長時代の摠見寺には高札(規則・連絡事項を民衆に知らせるための掲示板)が掲げられ「ご利益」が書かれていました。ルイス・フロイスの「日本史」にはその内容がくわしくかかれています。長くなるので簡単に書くと。
・富が増える・貧しいものは豊かになる。
・相続する者が生まれる・子孫が増える。
・80歳まで生きられる・長寿になる。
・病が治る・健康になる。
といったご利益が書かれていました。現在のパワースポットブームも真っ青の盛りだくさんのご利益です。
そして信長は「予の誕生日に参拝することを命ずる」と書いたのでした。つまり「信長の誕生日に来い」ということです。
仏教にはお釈迦様の誕生日にお参りするという習慣があります。信長はそれを自分の誕生日に置き換えたのです。
もしかするとキリストの誕生を祝う日がある。というキリスト教の考えをイエズス会から聞いていたのかもしれません。
フロイスはこれを見て「信長は自分を神として拝ませている」と考えました。
確かに「自分の誕生日に来い」というのは自分を崇拝の対象にしたい。という思いがあったのかもしれません。
でもこの高札には祭神が信長とは書いてません。
では信長は人々に何を拝ませたのでしょうか?
弁才天を祀る
摠見寺の本尊は観世音菩薩です。
さらに信長時代には本堂にはもう一体の仏像が安置されていました。
弁才天です。
この弁才天は信長自ら竹生島に行って勧請した由緒あるものです。信長公記にも天正9年(1581年)4月10日に信長が竹生島に行ったことが書かれています。往復100kmの行程を一日で往復するという強行軍でした。
一説によると摠見寺の弁才天像は竹生島にあった弁才天像そのものではないかという噂もあります。でもそれが本当かどうかはわかりません。
観世音菩薩も弁才天も現世利益の神仏です。信長は現世利益の神々を集めて人々の崇拝を集めようとしたのです。
他にも摠見寺には各地(主に近江やその周辺)から霊験の高い仏像を集めて安置しました。信長が列挙したご利益はこうした神仏のおかげなのです。
しかも信長の誕生日を釈尊の誕生日のように参拝させる命令をだしました。
人々は観世音菩薩や弁才天を拝んでいるつもりだったかもしれません。
しかし信長にとっては自分が崇拝を集めているような気分だったのでしょう。
少なくとも自分がプロデュースした宗教施設が人々の崇拝を集めている。信長は宗教的権威も自分のものにした。と思ったことでしょう。
これは一向宗との戦いで宗教の力を思い知ったことも影響しているのでしょう。
御神体は石
摠見寺には仏像とは別に御神体がありました。
”ぼんさん”といわれる石です。
フロイスの日本史には「寺院の一番高所、全ての仏の上、一種の安置所、ないし窓のない仏間を作り、そこにその石を収納するように命じた」とあります。
摠見寺がいつできたのかはわかりませんが「信長公記」に初めて摠見寺が出てくるのが天正9年7月(1581年)です。竹生島の弁才天勧請もあわせると天正9年完成が妥当かもしれません。
また「信長公記」には天正7年(1579年)に安土城天主が完成したとき天主一階の付書院に盆山を置かせたと書かれてあります。
盆山とは観賞用につくられた人工の山あるいは山に見立てた石です。
フロイスの書くボンサンと信長公記の盆山が同じものかはわかりません。同じだとすると盆山ははじめ安土城内にありその後、摠見寺に移されたことになります。
また「信長公記」には「蛇石」と呼ばれる大きな意志を一万人近い人手をかけて安土山に引き上げたことや。フロイスの「日本記」にも6、7千人近い人手をかけて特別な石を安土山のもっとも高い建物に運ばせた事が書かれています。
宗教施設には御神体が必要。というのは神道やシャーマニズムなどの原始宗教の考え方です。もともと神職を祖先に持つ信長は「御神体」の発想にいきついたのでしょう。
現在その大きな石はどこにあるのかわかりませんが。今も安土山のどこかに埋もれているのかもしれません。
現在の安土城二の丸跡には信長廟があります。これは豊臣秀吉が建てたものですが。箱型に石を積んでその上に岩を載せてあります。当時の一般的な墓の形とも違う方です。秀吉はなぜこのような奇妙な形の廟を作ったのでしょうか。信長が作った御神体をモデルに作ったのではないでしょうか。
信長の宗教政策を批判するイエズス会
イエズス会は信長をキリスト教の保護者だと信じていました。
ところが寺を建てて偶像崇拝を広めている信長に失望したようです。
イエズス会員ロレンソの報告では、本能寺の後に「神はこのような傲慢や偶像崇拝を神は許さず、明智という武将によって塵や灰にされた」のだとこき下ろしています。
まるで明智光秀がキリスト教の神の意志に動かされて信長を討ったかのようです。
フロイスは光秀を「偶像崇拝の悪魔の友」と呼びました。
でもロレンソは神が光秀を動かして信長を討たせたと考えました。
どちらが本当なのでしょうか?
イエズス会にとって仏教は偶像崇拝の異教です。悪魔の崇拝そのものです。「悪魔に汚染されている人々を神の教えに導くのが自分たちの使命」と考えているのが当時のキリスト教の宣教師です。
しかも摠見寺の仏像は弁才天。弁才天は女神です。女神崇拝はキリスト教が最も嫌う信仰です。
「悪魔の偶像崇拝だけでも許せないのに、女の悪魔を崇拝するなんて穢らわしい」というのがフロイスやイエズス会の本音でしょう。
つまり、信長の晩年の行いはエズス会の人たちにとっては絶対許すことのできない悪魔の行いだったのです。
信長は本当に神になりたかったのか?
今のところ信長が神(正確には神的生命、神格をもつ存在)になろうとした。と書いているのはイエズス会の報告だけです。
日本の歴史研究者は外国人が書いた物を盲目的に信じています。フロイスの報告も「一級の史料」と絶賛されています。でもそんな研究者も「信長が神になろうとした(神格を持つ存在になろうとした)」という部分だけはフロイスの捏造と決めつけて否定します。
確かにフロイスやイエズス会の報告は偏見や誤解が多いです。そのまま信じることは出来ません。でもフロイスの観察力が鋭いのは確かです。
大切なのは彼らがどういう考えの持ち主で何を考えていたかを理解すること。
日本の風習をよく知らないポルトガル人から見てどう映るか?
日本の神や仏を悪魔と信じているキリスト教原理主義者からみてどう思えたのか?
です。
信長が行ったことはイエズス会からみて「自ら神になるに等しい傲慢な反逆行為」と感じることだったのです。
キリスト教徒にとって最大の反逆はサタンのように自ら神になること。信長はそれに近いことを考えていたのかもしれません。
信長は人気者になりたかった
信長はいきなり神(神的存在)になろうとしたのではありません。
まずは安土城に寺院を建てて仏像を置いて民衆の支持を集めようとしました。
「権力者なのに民衆の支持を得ようとするのはおかしい」と思うかもしれません。ところが独裁者は意外と人気取りが上手いのです。外面と内面をうまく使い分けるんですね。
現代でもブラック企業の経営者は意外とマスコミや庶民の人気を集めるの上手です。本当に頭のいい人は数を味方にして利用する方法を知っています。
だから信長が民衆の支持を集めたとしても不思議ではありません。
ご利益のある仏像を置いたりご利益のある施設を作れば民衆の支持派集まります。
キリスト教の宣教師は偶像崇拝は許せません。
「キリスト教を支持してくれている」という期待の裏返しとして批判的な表現になったのかもしれません。
信仰の場をプロデュースしたことが「異教の悪魔崇拝に魂を売った」と神への反逆と受け止められたのかもしれません。
人が神になる方法は信長以前にもあった
ただし日本では人間の神格化は珍しくありません。
神道では人はだれでもカミになる素質をもっています。違うのはパワー(霊威)の強さです。
日本仏教でも多くの宗派では人間には仏性がある=誰でも仏になれる素質がある(できるはどうかはその人次第)と説きます。
つまり「人は神になれる」のです。少なくとも「人々から神のように崇拝される存在になれる」のです。
そして室町時代には人を神として祀る方法が存在していました。
吉田神道では当主が死ぬと神として祀ります。
当時の本願寺派では親鸞の子孫=蓮如を生き仏のように崇めていました。
人が神になろうとするのは信長オリジナルの発想ではありません。
信長が目指したものを秀吉・家康が実現した
信長が「自分も神のように崇拝を集めたい」「権威ある存在になりたい」と考えても不思議ではありません。
権力を手に入れた者が最後に求めるのは「権威」だからです。
人間は生存や物欲が満たされると最後に残るのは「承認要求」です。「人から認められたい」「すごいと思われたい」という願望は誰でも持っているもの。
その「承認要求」を満たす第一歩が、信長自らがプロデュースしたパワースポットです。
それに日本には「天皇」という権威が存在します。武士がどんなに力をつけて武力で朝廷を圧倒しても権威だけは超えることができません。天皇を超える権威を手に入れようとすれば人を超えるしかありません。
つまり「神」になるしかないのです。
そして信長が長生きして織田家が天下をとっていれば信長を神として祀る施設ができていたでしょう。
信長の考えは豊臣秀吉(豊国大明神)や徳川家康(東照大権現)に受け継がれまそた。とくに秀吉は信長の最もよい理解者だったので秀吉は信長のできなかったことを次々に実現させました。
秀吉や家康が神になろうとしたのに、お手本になった信長がそれを考えなかったと考えるほうがおかしいのです。
つまり、信長は神になろうとしたが後世には残らなかった。
神になる夢を実現したのが豊臣秀吉や徳川家康だったというわけです。
やがて信長の神になりたいという願望は明治になって実現します。
それが京都にある建勲神社です。
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