働くことが美徳の教えや宗教は珍しい

アダムとイブの楽園追放

 

「働くことは神聖なこと」という考えは世界的にみると珍しいです。

日本の神道では「働くことは神聖なこと」という考えがありました。

「働くことは大切なこと」は神道の教えから

でも、世界には労働は「良くないもの」と考えている宗教があります。

代表的な世界の宗教では労働をどのように考えているのか紹介しましょう。

 

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働くことは美徳は世界的に珍しい

キリスト教:労働は罰

西洋人の考えの元になってるキリスト教では労働は神の与えた罰です。楽園(エデンの園)で苦労せずに暮らしていたアダムとイブは神の教えに逆らって楽園を追放されました。神はアダムに「死ぬまで額に汗してパンを得る」運命をあたえたのです。

つまり労働は神から与えられた罰でした。

しかし一週間のうち一日だけは労働から開放されました。そのかわり神に祈らなければいけません。それが安息日です。神は世界を作り7日目に休んだという創世神話からきています。だから日曜日は休みなのです。逆に日曜日に働くことは神に逆らう行為です。働くことも休むことも神の命令通りにしなければいけいない。という考えがキリスト教の教えの奥底にはあります。

だから欧米では学童に教室の掃除はさせません。欧米人は日本で生徒が教室の掃除をしているのを見ると批判します。掃除は罰だと考えているからです。「悪いことをしていない子供に罰を与えるとは何事だ」と怒ります。

でも学校の掃除は罰で行っているのではありません。「労働は大切なこと」という日本古来の教えを学ぶために学校では掃除をしているのですね。

欧米では事業で成功すると早々と引退して余生は好きなことをして暮らすことがあります。労働は美徳ではありませんから一生困らないだけのお金を手にしたら働く必要がないのです。

ただし宗教改革によって「労働は魂の救済になる」という考え方も産まれました。一部の宗派では働くことを罰としない考えない教えもあります。しかしそれでも単純労働=悪い仕事=労役という考えは根強くあります。だからキリスト教世界には奴隷制度があったのです。

ユダヤ教:個人の努力で救われる

ユダヤ教では労働は尊いことと考えられています。世界を造った(=働いた)のが神だからです。アダムとイブが行った原罪はユダヤ教では個人の努力によって救済可能です。礼拝や労働が救済のための努力になるのです。

キリスト教では救世主(キリスト)の存在無くして人々が救済されることはありません。原罪は人類全体の罪なので個人レベルでは救済できないからです。少なくとも宗教改革まではそうでした。

ユダヤ教にも救世主の考えはあります。でも救世主は原罪を償う存在ではありません。ユダヤ人の国を再興し民族全体を救うのが救世主です。だから原罪の償いは個人でも可能なのです。

しかし安息日には労働をしてはいけません。神が休んだ日なので人間も休まなくてはいけません。神の教えに反する行為になるからです。

キリスト教はユダヤ教から独立した宗教ですが価値観が違う部分もあるようです。昔はキリスト教徒からは「ユダヤ人は金儲けに熱心」と陰口を叩かれることがありました。お金に関わる仕事は卑しいという考えがあったからなのですが。もともと労働に対する価値観が違っていたのでしょう。

儒教:肉体労働は卑しい

中国人や韓国人の考えの元になっている儒教では肉体労働は卑しい者の仕事です。
儒教の世界では身分の高い者は頭脳労働しかしません。体を動かして働くことは身分の卑しいものがすることなのです。

儒教国では頭を使うのが偉い人。体を動かすのが卑しい人と決まっています。

儒教国では体を動かさずに理屈を言う人が偉い社会になります。結果として労働が疎かになり技術の発展が遅れるのです。そのため儒教国では老舗があまり存在しません。

代々労働している=子供に教育を受けさせられない貧乏な家系・卑しい家系と考えるからです。事業で成功したら子供には高等教育を受けさせ、役人や頭脳労働者にするのが儒教国では一般的です。

このように、キリスト教国や儒教国では労働はあまりいいイメージでないことがわかります。

仏教:日本に来て変化した教え

仏教にはとくに労働についての教えはないようです。

本来、釈迦の教えではこの世は苦に満ちており、迷いや苦悩から開放されるのが悟りをひらくということでした。修業によって悟りをひらくのが仏教の最終目標です。修行を行うことができない人は善行を重ねることで悟りに近づけるとされます。

日本に入ってきた仏教は労働=修行という考え方が産まれました。これは神道の影響をうけたからです。ただし神道では「漠然と労働は尊い役目」としていたものを「労働は修行」とはっきり定義することで庶民に説明しやすくなりました。

むしろ仏教が熱心に布教活動を行ったので「労働は美徳」は仏教の教えのように考える人もいます。

その他

ギリシアでは労働は苦役と同じでした。とくに肉体労働は奴隷の仕事とされたのです。ギリシアの人々は仕事は午前中で終わらせ、午後は哲学や政治の話や議論に没頭したり娯楽を楽しみました。奴隷がいたので雑用は奴隷に任せます。ギリシアも日本と同じ多神教です。ギリシアの神は快楽を求めることには意欲的ですが、一部を除けば労働はしません。日本の神々と価値観が違うようです。ローマ神話もギリシアと似たようなものです。ギリシア・ローマの考えはキリスト教に影響を与えているようです。

 

歴史とともにかわる労働の価値

こうしてみると労働が美徳という考えは世界的にはあまり一般的ではないことがわかります。原始社会や古代には世界中で労働は尊いことという考えはあったのかもしれません。神道やユダヤ教にその考えは残っています。

しかし文明が進み、人々が知識を身につけると肉体労働の価値は低くなりました。とくに奴隷制度を持つ国では肉体労働は卑しいものの役目と考えられます。

救いを求めているのは庶民=労働者のはず。なのに世界の宗教は労働者を価値の低いものにしてしまいました。

宗教が信者になるはずの人を貶めるという矛盾ができてしまったのです。権威ある宗教は人々を救うことができなくなりました。むしろ宗教が差別を広げる悪い存在になったのです。

その結果、人々の間に新興宗教、マルクス主義(共産主義)が広まりました。共産主義は神や古い権威を否定します。古い宗教の矛盾を取り除いた教えです。でもその正体は新しい形の宗教といえます。教えの内容は違うものの形としては儒教に似ています(宗教教団は存在しないが理屈や社会のあり方として人々の間に広まっていく点では同じ)。

昔ながらの神を信じない人が増えたのは単に科学の発達や合理主義だけでは説明できません。人間の心は理屈では割り切れない部分があるからです。古い宗教とは違う新しい考え方が広まると、権威ある宗教が人々の抱えている苦悩を救えなくなりました。

日本では平安時代以降、神仏習合が進みます。神道独自の活動は衰退して仏教中心の世の中になりました。神道の教え・考え方は仏教の教えとして広まったものもありますし、人々の生活レベルで根付いた考え方もあります。労働は尊いものという考えは古い時代の考えを現代に伝える珍しい例かもしれませんね。

 

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