日本人は勤勉だといいます。
寝る間も惜しんで働くのがいいことだと思ってる人も多いですよね。
現代では働きすぎて問題もおきていますが、日本人が勤勉だったからこそ、現在の日本に発展できたのは間違いありません。
なぜ日本人は勤勉なのでしょうか?
それは「神道」の教えにヒントがあります。
神道を信仰していると自覚してる人は少ないと思います。でも神道は日本人の価値観・考え方を作った考え方なんですよ。
例えば早乙女が田植えする写真を見てください。これは田植えがハレの日の行事、神聖な儀式だったことの名残です。
なぜ神道が勤勉な日本人をつくったのかみていきましょう。
稲作は神との誓い
神道とは自然崇拝と祖霊信仰が始まりです。でも現在伝わっている神道の儀式をみるとほとんどが農耕や稲作に関係した儀式だと気づきます。
神道では農耕と稲作が大きなテーマになってるのです。
「日本書紀」の天孫降臨の場面には天照大御神が稲作について語っている部分があります。
天照大御神は孫の邇邇芸命に対して三大神勅を与えました。神勅というと難しく感じますが、要するに「誓い」「約束」です。
3つの誓いを簡単に書くとこうなります。
・地上の世界は天照大御神の子孫が王となって治めること。
・鏡は天照大御神と同じなので鏡を祀ること。
・地上で稲を育てること。
3つ目の神勅は「齋庭の稲穂の神勅」と呼ばれます。
日本書紀に書かれた「齋庭の稲穂の神勅」の部分を現代語訳にするとこうなります。
天照大御神は孫の邇邇藝命に言いました。
「邇邇藝命よこの高天原の神聖な稲穂をお前に授けるから、私に代わって葦原中津国で稲を育てるように願う」
高天原は天照大御神たち神々が暮らす天上世界です。葦原中津国は地上世界。具体的には日本です。
つまり天照大御神は孫の邇邇芸命に地上界でも稲作をするように命令したのですね。
神々も天上界で労働している
神の子孫が人間界の王になる話は世界中の神話によくあります。でも神が子孫に対して農作業をしなさいと命令する神話は珍しいです。
なぜこんな命令をしたのでしょうか?
実は日本の神々は天上界でも働いているのです。
神々の世界では天照大御神たちが水田を作って稲作をしていたんですね。他にも織物を織る神や食べ物を生産する神などが登場します。古事記には神々は天上界でも働いていることが書かれているのです。
現在でも皇居には水田があって天皇陛下が苗を植えて、秋には収穫して天照大御神にお供えしています。それは現在でも天照大御神の言いつけを守っているからなのです。
ところが地上世界は広いです。神の子孫=天皇だけではすべての稲作をできません。そこで天皇に代わって人々が稲作を行うことになりました。
ちなみに須佐之男命は働かずに暴れて神々の仕事を邪魔したため結果的に天上界を追放されました。働かない者は、いてはいけないのです。
働く神たち
古事記や日本書紀を見ると、神や神の子孫たちが労働している場面がよく出てきます。
こうして働くことは神聖なこと。という考えが産まれました。
海幸彦と山幸彦の物語もそうです。海幸彦と山幸彦は邇邇芸命の3人の息子うちの2人です。海幸彦は海で漁をして山幸彦は山で漁師をしていました。なぜ神の子孫なのに漁師と猟師をしているのかと不思議に思うかもしれません。働くことは神聖なことだからおかしくはないのです。
他の神様も労働をイメージした姿で描かれることがあります。
例えば恵比寿様は釣り竿と鯛を持っています。神様が漁をしているのです。
古い時代の稲荷神の姿は、稲を担いでいる姿で描かれています。これは稲の収穫の姿をイメージしているんですね。名前からして「稲を荷なう神」=稲をかつぐ神です。「稲荷」は当て字ですが、当て字をするにもできるだけ神様の性格を表現した漢字にしたんですね。
芸能の始まりは天宇受売命。天宇受売命は天の岩屋戸の前で踊りました。踊りや音楽は古代には儀式でした。芸能も古代には神聖なことだったんですね。
神々もやっていることだから働くことは神聖なこと。という考えが日本人の考えに定着したのです。
古事記や日本書紀はそれまでの日本人の価値観で書かれています。古代の人々が口伝えで受け継いでいたこと、習慣になっていたものをまとめたものだからです。古代の人々の価値観では米作りは生きていくために必要な仕事であると同時に、神の恵みを受け取ることができる神聖な行い。という考えがあったようです。
労働は浄化の作法
神道には罪穢れという考えがあります。個人の犯した罪や災い・災難のことです。程度の差はあっても、どの宗教にも在る考えです。でも神道ではとりわけ大きな意味を持ちます。人のもつ苦悩から開放されることは宗教のテーマのひとつです。仏教や死リスト教などの教えがはっきりとした宗教には個人の苦悩の救済が重要な課題になっているほどです。
神道には個人の救済は大きなテーマではありません。でもまったく救済する方法がないかというとそうではありません。
神道では罪穢れをはらう作法が苦悩からの開放も兼ねているからです。罪穢れを払う作法には様々なものがあります。その中で労働も罪穢れを払う作法のひとつなんです。
神道では一生懸命仕事に務めることで罪を償えるという教えがあるのです。
なぜなら労働は神も行っている神聖な行いだから。個人の労働は神に変わって役目を果たしていることですから、個人の労働も神聖なことなんですね。
スポーツ業界などで不祥事があると選手が「自分の役目をしっかり果たすことが償いだと思います」と、コメントしている光景があります。これはもともとは日本人が古くからもっていた考えなんです。
変わりつつある日本
しかし日本にも儒教や西洋の考えが入ってきました。働くことが美徳ではなくなりつつあります。
諸外国の考えや宗教では労働は価値の高いものではないとするものが多いです。
特に儒教は飛鳥時代に日本に伝わり役人の学問として定着しました。貴族も儒教を身に着けました。江戸時代には武士や庶民にも広まりました。そのせいで働くことが美徳とはいいきれなくなり、役人や知識を持った人が偉そうにする社会になった部分はあります。
一次産業(農林水産業)や肉体労働者が低い地位に追いやられてしまってるのは残念なことです。
また働くことが美徳という日本人の考えを悪用した企業によって労働者が過労死する事件も起きています。勤勉は悪い教えではないのですが、悪用されると大変なことになってしまうのですね。
古代の日本は文明も遅れて貧しい国でした。でも様々な知識や技術を吸収して発展させました。知識や技術は伝わっただけでは役に立ちません。実行しなければ意味がないのです。改良してさらにいいものにすればもっとよくなります。
労働は尊いという考えがあったからこそ、日本は様々な知識や技術を吸収して改良を加え実行してきたのですね。
明治維新後の急激な近代化や戦後の復興と発展も、日本人のもつ勤勉さがあったから可能でした。そのおかげで世界有数の経済力と技術力を持つ国になれたのですね。
現在では合理的な考えが広まりました。合理的な考えだと損得が優先されます。働くことが美徳という考えは薄れつつあります。この傾向はキリスト教国や儒教国もおなじです。古い教えは次第に変化したり廃れたりしています。
でも真面目な日本人はつい頑張りすぎてしまいます。働くことは本来よいことのはずです。でも体を壊さないようにほどほどにしましょう。バランスをとってときには休むことも必要です。
いい面も悪い面もありますが日本人の考え方に大きな影響を与えたのが神道だったんですね。
現代では楽に生きようという考えが増えています。
でも働くことは大切なこと。という考えを今一度、思い出してみたいですね。
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