「動物神はたたる」は間違い、霊感商法かも

狐面

よく動物神は祟るという人がいます。

じゃあ動物神でない神様は祟らないのか?そんなことはありません。

菅原道真、平将門、崇徳上皇・・・強烈に祟る神様は人間の神様に多いです。

祖先の墓を粗末にあつかったばかりに、その家に不幸がおきたという話もあります。丁寧に祀らないと祟るのは動物も人もいっしょなんですね。

高級な神様だから人間に災いを起こさないなんてことはありません。でも、なぜ動物神が祟るといわれているのでしょうか?

そこには動物=下等
という人間の思いあがった考えがあるようなのです。

 

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動物=下等という考えはなぜ?

なぜ見返りを求めるのは動物神だけというデマが広がってしまったのでしょうか。

一部の霊能者の間ではこのように信じられていいます。
「動物霊は下級な霊である」

そもそも下級ってどういう意味なんでしょうね?
人間は特別は存在だけど動物は下等な生き物だから、悪い霊は動物の霊に違いないという考え方のようです。

狐面

狐が憑いていたわけではないのに・・・

 

江戸時代には「狐憑き」というものがありました。
明治以降、昭和になっても残ってる地方もありました。
場所によっては「犬神」とか別の生き物が憑いていることになってます。

これは錯乱状態や精神病の原因が分からなかった時代に、霊力をもつものがとり憑いているのではないかと考えられたためです。

一部の霊能者が狐の霊のお告げとして信託をしたり、人を呪ったりするものがいたことも「狐=悪い」というイメージが付いた原因のひとつでしょう。

既に江戸時代の一部の医者や学者の間では狐の憑き物説は否定されていました。でも民間に広まったものは消えることがありませんでした。

こういった誤った民間伝承も動物霊が悪さをするという勘違いにつながったのだと思います。

確かに狐は霊力がある動物だと信じられて来ました。それは下等だからではなく、むしろ逆でした。少なくとも目に見えない力では人間以上の力を持っている。と、怖れていたのです。

でも現代でも悪さをするのは動物霊だという人はいます。

悪いことをする霊は動物霊と決め付けるのはどうかと思います。
犯罪者って動物なんでしょうか?違いますよね。人間にだって、いい人もいるし悪い人もいます。境遇が変われば、いい人も悪い人になることもあります。

むしろひどいことをするのは動物よりも人間のほうだと思うのです。

江戸時代までの日本人は自然を怖れ奉るという習慣がありました。自然も人も動物もおなじように怖れるものは怖れてました。

逆に扱いが悪いと祟るのは人も動物も一緒です。
菅原道真、平将門、崇徳上皇。
そこまで有名人じゃなくても祖先のお墓を粗末にあつかうとたたりがあるとか。ときには人形までたたりがあるとか。

また奈良時代や平安時代には伊勢神宮や賀茂神社に鎮座する神様も祟りを起こすと信じられました。神様のご機嫌を損ねると災害や異常な現象を起こして人々に知らせるのです。

昔の日本人は動物、人間、神様は怒らせると仕返しをしてくると信じていたのですね。

北野天満宮

天神様・人の恨みの方が怖い?

 

つまり、神道、仏教にかぎらず日本人の感覚では。
動物神だけが祟る。なんてことはありえないのです。

 

なぜ動物が悪者になったの?

その考えが変わったのは、明治以降西洋の考え方が入ってからです。

文明開化が日本人を変えた?

進んだ技術を手にした日本人は自然を怖れる必要がなくなりました。

精神的にも新しい考えが広まります。

「神は神に似せて人を作った。そして獣や地上を支配させることにした。」というのはキリスト教の教えです。

現代日本人は狼やカラスを悪い動物、縁起の悪い動物と思いがちです。でもそれは西洋文化の影響なんですね。

狼は「大神」。江戸時代以前の人は狼は森を守る神と考えていました。カラスも神の使いです。

明治からあとに「人間は動物より偉い」という考えが広まったんです。人間は精神的にも物理的にも自然や動物より有利な立場になりました。すくなくとも人間はそう考えるようになりました。

そうなると動物だけではなく、動物の姿をした神様まで見下すようになりました。

逆に「人間の姿をした神様は偉いんだから、人間に対して見返りを求めるはずがない」という考えも生まれました。

しかもキリスト教では「人間は神の子」です。キリスト教的価値感では「人間は神の子だから、親(神)のいうことは守らないといけない」という理屈です。他の一神教でも似たような考え方があります。

でも信仰心の低い日本では「親だから子供の甘えをゆるすのは当然」→「神様だから無条件に願いをかなえてくれるのは当然」
という、つごうのいい部分だけが広まりました。

現代の神様のイメージは西洋の神の考え方と日本の神が中途半端に混ざったものなんですね。

さらに、現代人は謙虚さや感謝するという気持ちがなくなって自分の利益や権利だけを主張するようになったのと関係があるのかもしれません。

 

一神教的価値観も影響

また、キリスト教などの一神教を信じている人の中には「自然神を敬うのは原始的・野蛮だ」と考える人がいます。だから平気で他の宗教の施設や神様の像を傷つけたり壊したりできます。かつて神社仏閣に油をかけたりする事件がありました。犯人はキリスト教系の信者でした。人間は地上の支配者になるべく神が作った存在。だから動物や自然よりも高い地位にいるべきと考えているんですね。

キリスト教の世界では古くからいた多神教の神は悪魔にされてしまいました。特に動物の姿をした神様は悪魔の代表のような存在になってしまいました。キリスト教などの一神教が広まると自然の神様は原始的・下等な存在という考えが広まりました。

でもキリスト教だから偉いというのではなく。世界に先駆けて産業革命を起こして文明を発展させたヨーロッパの人がたまたまキリスト教徒だったからという理由です。だからキリスト教=一神教=人間の姿をした神が偉いという考えになっただけなんです。自然神・動物神を信仰している国が先に文明開化してたら動物神に対する価値観が変わっていたでしょう。

もちろん日本に住む多くのキリスト教徒はそんな差別的な考えは持っていないと思います。でもそのように考える人もいるんですね。

神道的価値感では

日本古来の考え方では万物に霊が宿ると考えられてきました。人間や動物、植物、石や物にも魂は宿るという考え方です。神様自身も人の姿や動物の姿、物の姿と自由に変わることもあります。

だから古代の日本人は山や石を御神体として崇めてきました。神社のご神体も「鏡」であることが多いです。人の姿はしていません。もともと日本の神様は自然そのものなので実体がありません。神社の建物も人間の都合で作った物です。

人だから、動物だから、という区別があいまいなのが神道の考え方です。恵みをもたらすのも災いをもたらすのも神様の機嫌しだいです。だから昔の日本人は神様の機嫌をこわさないようにに祀ってきました。

だから稲荷はたたるというより日本の神様は祟るものなのです。人の神とか動物の神とかは関係ありません。

古代の天照大神は祟る神だった

例えば、天照大神は皇室の祖先神ですよね。しかし皇室が最も恐れた神様も天照大神なのです。なにか失礼があったら祟られる。だから古代には怖くて宮中で祀れませんでした。でもお祀りしないと祟りが怖い。そこで一族の女性を送って天皇の代わりに奉仕してもらう。それが斎王です。斎王制度が始まったのは天武天皇の時代といわれます。天武天皇はそれまで一族が恐れていた神様を味方にして皇位争い(壬申の乱)に勝ちました。だから天照大神に対する信仰心は誰よりも強い人です。しかしもっと古い雄略天皇の時代にも一族の女性を伊勢大神(当時の伊勢神宮の呼び名)に送ったことがあります。天皇(当時は大王)に代わって祭祀を行う人はいました。制度として決まったのが天武天皇の時代ということのようです。

天照大神を宮中でお祀りするようになったのは平安時代から。もちろん現代の御所にも祀られています。しかし天照大神の鎮座する場所は「貴所」と呼ばれる一方で「恐所」とも呼ばれます。とても尊いけれども同時に怖い存在。それが神様なのです。ですから平安時代にはなにか異変があると「伊勢(天照大神)の祟り」と恐れられ鎮魂の儀式が行われることがありました。

天照大神は庶民には優しい神様ですが子孫にとっては怖い神様でもあるのです。

これはどこの氏神でも同じです。祖先の墓を疎かにすると祟りがあると言われるのも同じ理由です。

儒教の教えで変化

祖先神を無条件に尊い存在として拝むようになったのは江戸時代後半から明治にかけて儒教が普及してから。儒教では「孝」が最も大切です。孝とは子が親に尽くすこと。孝の究極の形が祖先に尽くすことですね。だから祖先の霊を怖いなんて言ったら失礼。何が何でも祖先を祀って丁重にあつかわないといけないのです。

でも儒教が普及するまでは尊さと怖さが同居するのが祖先の霊だったのですね。

でも祖先は人です。つまり本来の神道の考えでは人の霊は祟るのです。

仏教的価値感では

仏教では仏は人の姿をしています。でも人々が拝んでいるのは人間が作った物です。仏像には魂が入っているからです。

物にも魂が宿るという考えがここにもあります。また動物の命は大切にあつかわないといけないことになっています。

人間は死んだら生まれ変わります。でも再び人間に生まれ変わる保障はありません。動物もその魂はかつては人間のものだったかもしれない。というのが仏教の考え方です。

仏教には体の一部が動物だったり、もとは動物だったりする神様もいます。仏像ではかなり人型にアレンジされてるものも多いです。そんな神様にはインド神話の出身が多いのも特徴です。

大聖歓喜天はガネーシャがもとになっています。ガネーシャは象の頭をしています。

金比羅の語源となった宮比羅大将(クンビーラ)はもともとはワニを神格化したものです。

仏を守る八部衆と呼ばれる神様は人間以外のものがモチーフも多いです。
竜王(ナーガ)はもともとは蛇を神格化したもの。

迦楼羅(ガルダ)は鳥(猛禽類+孔雀のイメージ)。

乾闥婆(ガンダルヴァ)、緊那羅(キンナラ)は上半身が人で下半身が獣や鳥の姿。摩睺羅伽(マハーラーガ)は大蛇=ニシキヘビですね。

いちおう人の姿をしてるのは天王(ディーヴァ)、夜叉(ヤクシャ)、阿修羅(アスラ)ですが。夜叉は日本でいう「鬼」みたいなもの、女の夜叉は美人に描かれることもあります。

仏教系稲荷のご本尊・荼枳尼天(ダーキニー)はかつては女の夜叉でした。仏によって改心して守護神になったといわれます。荼枳尼天は中国に伝わった時には野干を眷属(神の使い)にしてました。野干とはジャッカルのことです。日本には野干がいなかったので形の似ている狐のことだと信じられるようになりまし た。

荼枳尼天の術は強力ですがあつかいを間違うと不幸になったり、没落したり、命を奪われる危険なものだといわれます。そのせいで外法として嫌う人も多かったようです。でも戦国武将の中には荼枳尼天を信仰している人も多かったようです。とっても力が強いから命のかかってる戦国武将には頼もしい神様だったのです。

荼枳尼天の術は憑き物を落すのに効き目があると信じられていました。でも民間に広まる間に狐を取り付かせることもできると信じられるようになったとも言われます。悪用する人はいつの世もいるということです。このあたりも狐が祟ると言われているのに関係していると思われます。薬も悪用すれば毒になるんですね。

阿修羅はご存知の通り顔と手がたくさん付いてて「人」というには抵抗があります。天王は天上界に住んでて人を守ってくれる神様をまとめて表現したものですが、その中にはさきほどの聖歓喜天みたいなのも含まれます。

要するに、東洋の神様は人とか動物とかあんまりこだわりがなくかなりバラエティー豊かです。

結論・動物霊が祟る=詐欺のネタ

話がだいぶそれましたが、動物の神だから祟りがあるとか、人の神だから許してくれると考えるのは無意味なんですね。

結局のところ。

動物神だからたたるといってるのは。
人の不幸を動物霊というものの仕業にして、お金儲けをしている人の口実。

霊感商法・詐欺のネタにすぎません。

「動物霊が悪さをしています」
なんていう人を信じてはいけませんよ。

動物霊にしておけばもっともらしいし、動物霊(いればの話ですが)は名誉毀損で訴えることもないから。悪者にするには便利な存在なんです。

動物霊は悪者に仕立て上げるには便利な存在。だからかってに動物霊の仕業にしている。

だけなんです。だから信じる必要はありません。

神様に会うのは、人に会うのと一緒です。
動物とか人の形をしているのは関係ありません。
感謝の気持ちをもって接すればそれでいいんですね。

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