清少納言が涙するほど苦しかった稲荷山登山

稲荷山地図

清少納言は枕草子で有名な平安時代の女流作家ですね。その清少納言は伏見稲荷に行ったことがあります。枕草子にも伏見稲荷参拝の様子は書かれています。

当時は今のような立派な社殿はなく、神社の裏にそびえる稲荷山にいくつもの社がありました。人々は稲荷山に登って上社・中社・下社とよばれる三つの社をお参りしていたのです。

清少納言は苦しい思いをして稲荷山に登って後悔したと書いています。稲荷山詣では都の人々に大人気でした。でもどうやら清少納言の体力ではきつかったようです。

そんな清少納言の稲荷山参拝はどんなかんじだったのか紹介します。

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清少納言とは

清少納言(せいしょうなごん)は平安時代の作家・歌人。966~1025年?

随筆「枕草子」が有名。

父は著名な歌人の清原元輔(きよはらの もとすけ)。

993年ごろから一条天皇の妃・中宮定子(藤原定子:ふじわらの さだこ)に仕えました。

宮中で働く正式な女官ではなく、中宮定子の父・藤原道隆(ふじわらの みちたか)が雇った家庭教師です。
1001年に定子が死亡すると辞職。再婚して摂津(大阪府)で暮し、晩年は京都の東山に戻って父の建てた山荘で暮しました。東山には清少納言が仕えた中宮定子の墓もあります。晩年は縁の地で暮しながら一緒に中宮定子に仕えた和泉式部らと交流していたようです。

紫式部と仲が悪いと言われますが、紫式部が宮中に入ったときには清少納言はすでに宮中にいません。直接の面識はなかったと思われます。

枕草子 うらやましげなるもの より

現代語訳で枕草子「うらやましげなるもの」を紹介します。

羨ましいもの

思い立って稲荷山に参拝に行ったとき。中の御社のあたりで苦しくてたまらないのを、何とか我慢して登っていました。すると後から登って来る者どもが、少しもしんどそうな様子を見せずにどんどん進んで先にいくではありませんか。とても見事でした。

2月午の日。明け方から急いで登りはじめたのですが、まだ坂の途中を歩いているところなのにいつの間にか巳刻(御前10時ごろ)になってしまいました。だんだん暑くなって、本当に辛くて切なくて、どうして?もっといい日もあるだろうに、何のために今日わざわざ参拝しに来たのだろう。と思い涙がこぼれ、くたびれ果てて休んでいました。

すると40過ぎくらいの壺装束(上流・中流階級の女性の外出着)ではない着物のすそをたくし上げただけの女が「私は七度詣でに来ました。もう三度すませました。あと四度くらいは何ということはありません。未刻(午後2時ごろ)には終わって下山できるでしょう」と、道で出会った人と話してさっさと降りていった。

普通の場所だったら目にもとまるはずのない女だけど。あの時は「ああ、今すぐこの人になりかわりたい」と思ったものでした。

                               以上です。

解説

清少納言はなぜ稲荷山に行ったのか

旧暦2月午の日は現在の3月上旬。

3月上旬の京都の日の出は6時半ころ。

2月初午の日は稲荷大神が稲荷山に降臨した日と伝わります。

そのため稲荷神社では2月初午の日には参拝者に「しるしの杉」を授与しています。平安時代の京都では初午の日に稲荷山に参拝するのが流行っていました。

現在の伏見稲荷大社と違って平安時代は山の上に社がありました。稲荷山の三つの峰に鎮座する神様(上社・中社・下社)を参拝すればご利益があると信じられていました。そこで稲荷山巡りをすることを「お山する」といいます。

清少納言の稲荷山登山

1000年3月上旬。清少納言は人気のパワースポットに行きたくなって思い切って初午で賑わう稲荷山に行きました。

ちなみに清少納言が暮していた平安時代の御所から稲荷山までは約8キロメートル。バスや電車もない時代。清少納言は身分の高い公家ではないので牛車は使えません。夜明け前のまだ暗いうちに家を出発して歩いて稲荷山に向かったはずです。御所からだと歩いて2時間あまりで稲荷山の麓に到着したことでしょう。そこから稲荷山を登り始めました。

午前10時ごろ。清少納言は中社まで来ました。稲荷山の標高は233メートル。それほど高い山ではありません。中社は頂上よりも低い二ノ峰にあります。

宮中の暮らしになれた清少納言は苦しい山道を耐えて登りました。

ただでさえ苦しいのにだんだん暑くなってきました。今の3月上旬ですから冬の寒さがやわらぎ少しずつあたたかくなってきたころです。苦しいのを我慢して登っていると後から来た人にどんどん抜かれてしまいます。

涙を流しながら愚痴をこぼす清少納言

耐えられなくなった清少納言は中社のあたりで一休みしました。

現在の中社はこのようになってます。当時は石造りではなく、土を持った上に簡素な社が建っていたと思われます。

「もっといい日があるはずなのに」
「なんのためにわざわざ今日登ったのだろう」
と、悔しくて涙が出てきます。登ると決めたのは清少納言自身のはずですが思わずグチが出てしまいます。

清少納言が泣きながら休憩しているとある女性の会話が聞こえてきました。

その女性は見たところ40代。壺装束を着ていません。壺装束は上・中流階級の女性が外出するときに切る外出着です。その女性は庶民だったのでしょう。

人生50年の時代に40あまりといえば初老といっても差し支えありません。清少納言がわざわざ女性の年齢を書いてるのも「婆さんのくせに」という想いがあったのでしょう。

ちなみにこの時の清少納言は30歳半ばのバツイチ。宮中で働くキャリアウーマンですが、若いともいえません。その女性との年齢差は10歳くらいでしょう。

七度参りに挑戦する40過ぎの女性

清少納言がみかけたその女性は7回参拝するつもりで来ました。

稲荷山は山の麓から四つ辻まで登り、四つ辻~一の峰(上社)~二の峰(中社)~三の峰(下社)~四つ辻と周回できるようになっています。

稲荷山地図

山をぐるぐるまいながら何度も峰に祀られている神様をお参りしたのでしょう。ちなみに平安時代には千本鳥居はありません。千本鳥居ができたのは江戸時代からです。

どうやら平安時代には稲荷山を7回参拝するとご利益があると信じられていたようです。

その女性は10時ごろにはすでに3回お参りしていました。あと4回は平気だと自慢そうに言ってます。おおよそ1周1時間の計算なので十分達成可能です。

稲荷山は都から近いですし高い山ではないので女性や老人でも参拝ができるのです。それも稲荷山が人気の理由かもしれません。清少納言は庶民よりも体力がなかったのでしょう。

とはいえ当時は現在と違って山道は整備されていません。修行者が切り開いた獣道のような参道があっただけでしょう。平安時代には千本鳥居もありません。着物姿での登山は厳しいものがあったと思います。

ここは上社や中社に向かう参道とは違いますが。稲荷山でも比較的平安時代の面影が残っていると思われる参道です。清少納言が通った道もこのような感じだったと思います。

 

羨ましいもの

清少納言はその女性を見て「普段なら見かけても気にもしないような女なのに、今すぐにでも代わってもらいたい」と思ったのです。

清少納言が書いた徒然草は毒舌な内容のものがわりとあります。そんな辛口評論家の清少納言も稲荷山はこたえたようです。

タイトルの「うらやましげなるもの」とは清少納言が稲荷山でみかけた40過ぎの元気な女性でした。

平安時代の記録を見ているとかなり女性も稲荷山に登っているので、女性だから登れない山だったわけではないようです。清少納言の体力が他の女性よりも低かったのかもしれません。

ちなみに清少納言が稲荷山に登って何を祈願したのかは謎です。

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