御霊神社の八所御霊とは

上御霊

御霊神社には八柱の神様が祀られています。それらは「御霊」とされています。不幸な死に方をしてこの世に未練や恨みを持っている人が怨霊になり、怒りが収まって静かに静まっている状態です。

御霊神社が造られるきっかけは、神泉苑で行われた御霊会でした。

御霊会では崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使・橘逸勢・文室宮田麻呂の6人が御霊になったと考えられました。六所御霊といいます。

御霊会の後に(上)御霊神社や下御霊神社が造られました。

御霊神社の神様も六所御霊がもとになっています。しかし一部が入れ替わったり追加されています。上御霊神社と下御霊神社でも少し違うところもあります。

京都市に鎮座する上御霊神社に祀られている御霊について紹介します。

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御霊神社(上御霊神社)の八所御霊

神泉苑で行われた御霊会の六所御霊から伊豫親王と観察使が外れ、井上皇后と他戸親王が加わりました。

六所御霊に火雷神と吉備大臣が追加されました。

崇道天皇(すどうてんのう)

早良親王(さわら しんのう)
(750年?~785年)
父:光仁天皇
母:高野新笠
桓武天皇の弟。
若くして出家して東大寺で僧侶になりました。

天応元年(781年)。光仁天皇が桓武天皇に譲位したあと。光仁天皇の勧めで還俗。皇太弟になりました。

延暦4年(785年)。長岡京建設の責任者・藤原種継が暗殺されました。暗殺の実行犯に春宮坊(皇太子の家政機関)の者がいたので早良親王は事件との関係を疑われます。親王は捕まり乙訓寺に幽閉されました。淡路に送られる途中、餓死しました。無実を訴える抗議のため食を断ったといわれます。

ところがその後、妃の藤原旅子、母・高野新笠、皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)、妃の坂上又子が病死。皇太子の安殿(あて)親王(後の平城天皇)が病気になります。

延暦11年(792年)6月。占いで「早良親王の祟り」とでました。陰陽寮・神祇官(朝廷専属の神職)の占いは正しいと信じられていた時代です。役所の認定を受けたのと同じです。

桓武天皇は早良親王の供養の儀式を行いました。それでも長岡京で疫病や洪水が起こります。

桓武天皇は長岡京を捨てることを決意。工事が捗らないという理由もありますが、平安京に遷都する理由のひとつが怨霊から逃れることでした。

延暦19年(800年)には富士山が噴火。災害が続きます。
この年。桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の称号を贈り、淡路の山稜に陰陽師や僧侶を派遣して供養しました。

延暦24年(805年)3月。桓武天皇が死去。平城天皇が即位します。

平城天皇も早良親王の怨霊を恐れていました。本来なら早良親王が天皇になるはずなのに、自分が天皇になってしまったからです。

延暦24年(805年)4月。早良親王の遺骨を大和に移し陵墓を造りました(八島陵)。

大同5年(806年)。早良親王の陵墓に崇道天皇社が造られました。その後、各地に早良親王を主祭神とする神社が造られました。

事件の現場になった京都でも早良親王は恐れられました。桓武天皇のあとも平城天皇、嵯峨天皇などが早良親王の魂を鎮めるための法要や儀式を行いました。

井上大皇后(いのうえの おおきさき)

井上内親王(いのうえないしんのう)
(717~775年)
父:聖武天皇
母:県犬養広刀自
夫:光仁天皇
子:酒人内親王・他戸親王
妹:孝謙称徳天皇

若くして伊勢斎宮になりました。
天平16年(744年)。弟の死で斎宮を解かれ都に戻りました。
その後、白壁王(後の光仁天皇)の妃になりました。酒人内親王・他戸親王を産みました。

宝亀元年(770年)。白壁王が天皇に即位すると皇后になりました。翌年1月には他戸親王が皇太子になりました。

宝亀3年(772年)3月。井上皇后が光仁天皇を呪ったという理由で他戸親王とともに位を奪われます。

宝亀4年(773年)10月。難波内親王を呪殺したという疑いがかけられ他戸親王とともに大和国宇智郡に幽閉されました。

宝亀6年(775年)4月27日。幽閉先で親子が同じ日に亡くなりました。

同じ年。光仁天皇を支持していた藤原蔵下麻呂が死亡。

宝亀7年(776年)。このころから災害が起こるようになりました。

宝亀8年(777年)。宮中に妖怪が出没。大祓を行い僧600人で大般若経を読ませました。

9月。光仁天皇を支持していた藤原良嗣が死亡。
冬には井戸が枯れました。

人々は廃皇后・廃太子の怨霊だと噂するようになります。

皇太子の山部親王(後の桓武天皇)が病になり伊勢神宮で祈祷を行います。

宝亀8年(777年)。光仁天皇は墓を改装し「御墓」と改めました。墓守をおいて

桓武天皇の時代。

桓武天皇は平城京を捨て新しい都に移ろうと決意します。様々な理由がありますが、遷都を急いだ理由の一つが怨霊から逃れることでした。

延暦19年(800年)。早良親王の名誉回復とともに、廃皇后に皇后の位を贈りました。

他戸親王(おさべ しんのう)

他戸親王(おさべ しんのう)
(761~770年)
父:光仁天皇
母:井上内親王

白壁王(光仁天皇)と井上内親王の間に生まれた二人目の子。

聖武天皇~称徳天皇の時代には後継者争いで有力な皇位後継者が次々と消えていきました。すると聖武天皇の外孫(母の父が聖武天皇)という血筋が注目されるようになりました。当時としては聖武天皇の血筋を残したいと考える人が多かったようです。

宝亀元年(770年)。称徳天皇が跡継ぎを決めないまま死去。父・白壁王が天皇に即位。
将来的には聖武天皇の血を受け継ぐ他戸親王をするため、父の白壁王が天皇に選ばれたといわれます。

宝亀2年(771年)1月。他戸親王は皇太子になりました。

宝亀3年(772年)3月。母・井上内親王が光仁天皇を呪ったという罪で皇后の地位を奪われます。
5月。他戸親王も皇太子の座を奪われました。

宝亀4年(773年)10月。井上内親王が難波内親王を呪殺したという疑いがかけられます。母とともに皇族の地位を奪われ庶人に落とされ大和国宇智郡の役人の家に幽閉されました。

宝亀6年(775年)4月27日。幽閉先で親子が同じ日に亡くなりました。享年15。

その後の異変は井上内親王と同じ。様々な異変は井上内親王と他土親王の怨霊の仕業と噂されました。

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藤原大夫人(ふじわらの たいふじん)

本名:藤原吉子(ふじわらの よしこ)
(?~807年)
父:藤原是公
桓武天皇の妃。
伊予親王の母

兄の藤原南家・雄友は朝廷の重鎮でした。

伊予親王が謀反を疑われたことから、母子ともに捉えられ川原寺に幽閉されました。幽閉先で伊予親王とともに毒を飲み自害しました。

橘大夫(たちばなの たいぶ)

本名:橘 逸勢(たちばなの はなやなり)
(782~842年)

遣唐使にもなったことのある役人。

承和9年(842年)7月。嵯峨上皇が病に倒れす。
皇太子・恒貞親王に仕えていた橘 逸勢と伴健岑(ともの こわみね)は危機感を持ちます。道康親王の祖父・藤原良房は道康親王の即位を望んでいたからです。

橘 逸勢と伴健岑は恒貞親王の身が危ないので東国に逃がそうと考えます。阿保親王に協力を求めようと相談したところ仁明天皇に知られてしまいます。

9月。嵯峨上皇が死亡した2日後。橘 逸勢と伴健岑は「恒貞親王をかついで謀反を企てている」との疑いで逮捕されます。

橘 逸勢と伴 健岑は謀反を認めませんでしたが、仁明天皇の勅命で二人は「謀反」が確定。

橘 逸勢と伴 健岑は流罪。恒貞親王は皇太子の地位を奪われました。

逸勢は伊豆への護送中に死亡。60歳でした。

この事件を「承和の変」といいます。

無実の罪で死亡した逸勢は怨霊になったと信じられました。

仁寿3年(853年)。名誉回復、従四位下の位が与えられました。

逸勢は書道の達人で空海・嵯峨天皇とともに三筆といわれます。

文大夫(ぶんの たいぶ)

本名:文屋 宮田麿(ふんやの みやたまろ)
(生没年不明)
嵯峨天皇~文徳天皇の時代の中堅貴族。

承和7年(841年)12月。新羅人の張宝高(張保皐)の使者が特産品を朝廷に献上しようと太宰府にやってきました。朝廷は外国の個人からの献上品は受け付けていません。拒否しました。

文屋 宮田麿は張宝高に贈り物をして外国と交易しようとしました。しかしこのときは張宝高が暗殺されたので実現しませんでした。

承和8年(841年)。新羅の使節がやってきました。ところが文屋 宮田麿が使節の荷物を没収していしまいます。

承和9年(842年)。宮田麿が荷物を没収したことが朝廷に知られ、太宰府によって荷物が新羅の使者に返されました。

承和10年(843年)。従者の陽侯氏雄から「謀反を企んでいる」と訴えられ、逮捕されます。

尋問の末、謀反の罪が確定。宮田麿は財産を没収され、伊豆に流罪になりました。その後、宮田麿がいつ死んだのかはわかりません。流罪先で死亡したと考えられています。

宮田麿が謀反の罪で訴えられた理由はよく分かっていません。

火雷神(からいしん)

本名:菅原道真(すがわらの みちざね)
(845~903)

菅原道真は宇多天皇・醍醐天皇に仕え右大臣にまでなった人物。学者出身で大臣になったのは他に吉備真備くらいしかいません。

ところが道真に反感を持つ貴族たちによって大宰府に左遷され失意のうちに亡くなります。

その後、平安京で災害が発生。御所に落雷があり死傷者が出ました。そのため道真が怨霊と恐れられたのは有名な話。

朝廷は怨霊を鎮めるため、道真に「天満大自在天神」の称号を贈り北野神社に祀りました。

火雷神はもともとは「ほのいかづちのかみ」という雷の神様でした。菅原道真が怨霊となって雷を落とすと考えられたので火雷神(からいしん)とも言われました。

御霊信仰で火雷神といえば普通は菅原道真を意味します。井上内親王が産んだ御子とする説もあります。

現在の神社の由緒書では「以上六柱の荒魂」となっています。 

菅原道真は鎌倉時代以降に学問の神様として有名になりました。そのため怨霊扱いはふさわしくない。とされたからです。

吉備大臣(きびの おとと)

本名:吉備真備(きびの まきび)

父は下道圀勝。
遣唐使になり、20年唐で学びました。帰国後は橘諸兄の側近となって働きます。その後、東宮学士となって皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇)に仕えます。

孝謙天皇即位後も重臣として仕えますが、筑前守、肥前守として地方に赴任したり遣唐使になりました。藤原仲麻呂に疎まれたためだといわれます。鑑真を日本に招いたのも真備です。帰国後も太宰府で九州防衛の責任者になりました。

70歳で引退を考えましたが、認められず造東大寺司長官になりました。

その後、孝謙上皇と藤原仲麻呂が対立。戦になりそうでした。真備は孝謙上皇に呼び出されて、上皇軍の司令官になります。上皇軍を率いた真備は仲麻呂軍との戦いに勝利します。

その後、仲麻呂が担いでいた淳仁天皇が廃位され称徳天皇(孝謙上皇)が即位します。

藤原永手らとともに称徳天皇のもとで政治の中心人物となります。

宝亀元年(770年)。称徳天皇が死去。

宝亀2年(771年)。光仁天皇が即位後引退。

宝亀6年(775年)。10月に死亡しました。

吉備真備は非常に成功した人物なので、本体なら怨霊になる理由はありません。

ところが「水鏡」などの書物では吉備真備は称徳天皇の死後、後継者を巡って藤原永手らと対立したと書かれていました。称徳天皇の遺言を偽造して白壁王を天皇のしようとする藤原永手・良継・百川に対立し、真備は文室浄三・大市を次の天皇にしようとします。しかし後継者争いに破れ、引退。「長生きしたばかりにかえって恥をかいた」と後悔の言葉を残して死んだと信じられていました。

そこで、後世の人々が「吉備真備も怨霊になったのではないか?」と勝手に判断。御霊に加えてしまったのでしょう。

真備にとっては迷惑な話ですが、怨霊を恐れる人々にとっては笑い事ではなかったのです。

事実かどうかが問題ではなく「信じている人がいるかどうか」が怨霊になる条件でもあったのです。

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