神社に行くと狛犬があります。狛犬のもとになったのはライオンです。
古代メソポタミア文明にはライオン信仰がありました。ライオン
オリエントではライオンは王権の象徴。王座を守る守護獣でした。インドでは仏教の守護獣になりました。
そしてライオンはペルシャやインドから中国に伝わります。中国では獅子の像を置く習慣ができました。そして日本には朝鮮半島を経由したり中国から直接伝わったりして獅子がやってきました。
日本に伝わった獅子がなぜ神社の狛犬になったのか紹介します。
日本にやってきたライオン
古墳時代・最初は模様として伝わった獅子
古墳時代。大陸から伝わった道具に獅子の模様がありました。剣や鏡に獅子と見られる模様があるのです。
ライオンが物を噛んでいる様子をデザインした獅噛(しがみ)とよばれるデザインは武具や防具に使われました。獅噛が付いた剣は「高麗剣(こまつるぎ)と呼ばれました。漢民族が作った模様が朝鮮半島を経て伝来したものです。
飛鳥時代・仏教の守護獣として伝わった獅子
欽明13年(552年)。百済から仏教が正式に伝わりました。崇仏派と廃仏派の争いあと仏教が公認され、各地で仏像や寺院が作られました。
推古7年(607年)。法隆寺が完成。法隆寺の壁画には釈迦牟尼仏の前で座る二頭の獅子が描かれています。その姿は狛犬とほぼ同じです。
以後、国内で作られる寺院では仏を守る獅子が描かれたり、仏具に獅子の彫刻が刻まれました。飛鳥時代の獅子は敦煌の壁画によく似ています。五胡十六国~南北朝時代の中国の獅子が朝鮮半島を経て日本に伝わっていました。
奈良時代・仏を守る2頭の獅子
奈良時代。遣唐使よって様々なものが日本にやってきました。
詳しい時期はわかりませんが奈良時代には大寺院に金剛力士像とともに一対の獅子の像が置かれるようになったようです。元興寺、薬師寺、興福寺、東大寺の門や金堂、塔を守るために一対の獅子像が置かれていたようです。
でもこのときは寺を守る聖獣でした。狛犬という名前もありません。寺の記録には「獅子」と書かれています。
でも寺院に獅子像を置くことは廃れます。金剛力士像を置くのが普通になったからです。仏を守るのは人形をしている眷属神の役目になったのです。
角のある狛犬はどこから?
寺院の儀式では様々な踊りや音楽が披露されましたが、その中に獅子の被り物をした踊りがありました。このとき獅子と角のある獅子が登場します。現在でも聖徳太子の命日に行われる法隆寺精霊会で披露されます。
獅子舞の原型のようなものがこの時代にあったようです。2頭の動物が対になり、一方は獅子、一方は獅子に似ているけど角のある動物。という組み合わせもできあがりました。
その起源も古代中国にあります。
北魏では 仏像を担ぎ出して町を練り歩く儀式があり、そのとき獅子と辟邪(ヘキジャ)が仏像の露払いをしました。
獅子と辟邪の組み合わせが獅子と角のある獅子(辟邪)になったのでしょう。
狛犬のイメージはこの辟邪がもとになっているようです。
中国では辟邪は「悪霊を払う」という意味の言葉です。古代中国では墓に貔貅(ヒキュウ)の石像を置いて悪霊祓いにしていました。そのため貔貅を辟邪とよぶこともあります。
現代の中国では貔貅は悪魔祓いよりも財運の動物のようになってます。
それはともかく。
飛鳥時代・奈良時代の日本人は見慣れない生き物が「獅子」だと知っていました。
獅子がなぜ狛犬と呼ばれるようになったのでしょうか?
狛犬誕生
平安時代になって生まれた「狛犬」という言葉
意外も狛犬・高麗犬の名前が確認できるのは平安時代になってからです。獅子よりも後にできた名前でした。
「高麗犬」の名前が最初に出てくるのは雅楽の世界です。
宮廷には雅楽寮(うたまいのつかさ)が設立されました。雅楽寮には唐楽と高麗楽の2つの部署がありました。
高麗楽で使う道具に高麗犬(狛犬)の被り物がありました。高麗犬(狛犬)にはたてがみがなく角があります。獅子よりは辟邪(へきじゃ)に近い姿です。
貞観13年(871年)の記録には「狛犬」と書かれています。
唐楽で演じられるのは唐獅子の被り物をした獅子舞。高麗楽で演じられるのは狛犬の被り物をした狛犬舞です。
唐楽が左。高麗楽が右 と決まっていました。左大臣・右大臣の序列と同じ。左が上で右が下です。ここに左の獅子、右の狛犬の関係ができました。
下の画像は平安時代の記録「信西古楽図」の獅子舞の図ですが、これと対になる狛犬舞もあったようです。
平安の宮廷で使われる獅子と狛犬の像
平安時代の宮廷では動物の形をした調度品が使われていました。魔除けや実用目的など使われ方は様々。その中に獅子と狛犬の像がありました。
宮廷や公家の屋敷では御帳の四隅に獅子や狛犬を置いていたようです。
平安時代中頃の10世紀に書かれたといわれる「宇津保物語」には御帳の四隅に銀の狛犬が置かれていると書かれています。この狛犬は香炉も兼ねていました。魔除けと実用の両方の役目があったようです。
帳(とばり=カーテンのような布)が風でひらひらと飛ばないようにする鎮子(ちんす)の役目もあったようです。
清少納言が書いた枕草子にも調度品の獅子と狛犬が登場します。
国風文化の栄えた平安時代中頃には宮中や公家の屋敷で獅子や狛犬の像が使われていたようです。
神社の狛犬に大きな影響を与えたのが天皇・皇后の御帳台に置かれた獅子と狛犬の像です。
御帳台には金色の獅子 と 銀色の狛犬(角がある獅子)が向かい合わせに座っていました。
まるで天皇・皇后を守るかのようです。魔除けの意味があったのでしょう。
類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)にはさらに詳しく書かれています。類聚雑要抄は平安時代後期(12世紀頃)に書かれた摂関家の屋敷や調度品の記録です。それによると。
左 師子、色黄、開口
右 胡摩犬、色白、不開口、在角
つまり。
座っている人から見て
左には黄色の獅子の像があり、口が開いている(阿型)。
右には白い狛犬の像があり、口が閉じている(吽型)。角がある。
となっているのです。
神社の狛犬の様式そのものです。
ただし、類聚雑要抄の挿絵にある胡摩犬は麒麟の様な姿をしています。貔貅そのものです。平安時代の人々は狛犬は獅子とは別の生き物と分かっていたようです。
宮中で高貴な人を守る獅子と狛犬像がどうして神社に置かれるようになったのでしょうか?
神社の狛犬
神社に狛犬が置かれるきっかけは?
神社は神様をお祀りするところです。でも古来より神様の像はありませんでした。鏡や剣、石(玉)がご神体でした。依代としての物があればいいので神様の形をした像はありませんでした。
ところが仏像が伝来すると「神社に神様の像もあったほうがいい」と考える人達が出てきました。そこで平安時代は各地で神像が作られ神社に安置されました。
でも神様には形がありません。そこで当時の高貴な人の姿を真似て作られました。雛人形をイメージするとわかりやすいです。
神像が神社に置かれるようになると獅子・狛犬も神前に置かれるようになりました。
高貴な人を守るのが獅子・狛犬の役目。それなら高貴な人をモデルに作った神像の前にも獅子・狛犬の像は必要。となったのです。
このときは本殿の中や本殿の入り口。雨のかからないところに置かれました。木製のものが多かったようです。
やがて神像を置く習慣は廃れます。やはり「神様の姿は見えない」と考える神社にはなじまなかったのでしょう。鏡など依代をご神体にする祀り方にもどってしまいました。
それでも獅子・狛犬を置く習慣は続きました。
現在でも歴史のある神社の本殿には獅子・狛犬が置かれていることがあります。獅子は金色(黄色)、狛犬は銀色(白色)に彩色されているのが多いですね。
下鴨神社の獅子と狛犬。
平安時代から鎌倉時代・室町時代にかけて本殿の神前や縁に獅子・狛犬が置かれるようになりました。でも獅子・狛犬の役目は本殿を守ること。雨のかからない屋根の下に置かれていました。
徒然草に登場する獅子と狛犬
鎌倉時代に吉田兼好が書いた「徒然草」には神社に置かれた狛犬のエピソードがでてきます。教科書にも載るくらい有名な話です。簡単に紹介しましょう。
第236段「丹波に出雲と云ふ処あり」。
聖海上人は人を誘って丹波(京都府亀岡市)の出雲神社(現在の出雲大神宮)を参拝しました。すると神前の獅子・狛犬が後ろを向いて座っています。上人は「これは珍しい置き方だ。なにか深い理由があるに違いない」と大変感動して涙を流しました。そこで神官に聞いてみると「子どもたちがいたずらしたんですよ」と像を元に戻して去っていきました。上人の感涙は無駄になってしまったとさ。
というお話。
偉いお坊さんでもこういう失敗はするものだ。という笑い話なのですが、そのネタになるくらい神社に獅子と狛犬があるのは知られていたのです。
子供や神官が動かせるくらいなのでそんなに重いものではなさそうです。木彫りの像が置いてあったのでしょう。
しかも聖海上人は獅子と狛犬の置き方が普通じゃないので感動した。ということですから。この時代には獅子と狛犬の置き方は決まっていたことになります。
ちなみに現在の出雲大神宮にある狛犬は当時あったものとは違います。
江戸時代に急増した狛犬
狛犬が全国の神社に爆発的に広がったのは江戸時代でした。
鎌倉・室町時代にも武士が神社に寄進することはありました。でも武士が寄進したのは灯籠などが多かったようです。
なぜ狛犬が増えたのでしょうか?
「狛犬をさがして」の著者・橋本万平氏の説によれば。
寛永13年(1636年)。松平正綱と秋元義朝が日光東照宮の徳川家康の墓前に獅子・狛犬像を奉納しました。この二人は日光東照宮の造営に貢献した人物です。
その後、神社に獅子・狛犬像を奉納する人が増えたといわれます。
狛犬は屋根の下から本殿・拝殿の前に移動します。
上御霊神社の獅子と狛犬
屋根の下から外に出るので風雨にさらされます。そのため木製から石造りになりました。
それでも向かって左が角のある狛犬(吽型)。向かって右が獅子(阿型)。向かい合わせに座っています。配置の仕方は宮中の獅子・狛犬像と同じです。
江戸時代も中頃になると都市部では商人が力を付け、農村でも庄屋を中心に経済力を持つ豪農が誕生しました。
庶民の経済力が高くなると狛犬を寄進する人が増えました。もちろん灯籠や鳥居を奉納する人もいましたが、狛犬の奉納が急増しました。
人々は本殿・拝殿の前や参道など。人目につくところに狛犬を置きました。獅子・狛犬は神の前を離れ、人々の目につくところに進出し始めたのです。
それは寄進者の経済力をアピールすることにもつながったでしょう。
ところが。このころになると獅子と狛犬の区別が怪しくなります。経済力はあるとはいえ、宮中の伝統に詳しくない庶民が職人に依頼して作ったものです。角がないものも狛犬と呼んだり。置き方もさまざまです。
獅子より狛犬の呼び方が広まったのはいくつか理由があると思います。
獅子は日本にはいない生き物なので仏教的・外国のイメージが強いです。
狛犬は正体はともかく名前が「犬」です。「見張り番をしている」「庶民的」のイメージがあるので馴染みやすいです。
また、漢字が「高麗」から「狛」に変わったので「こま」は「高麗(こま)=外国から来たもの」という意味から「魔除け(降魔)の動物・見張り番」の意味に変わっていったようです。猪・蛇・兎などの神使の像を 外来の動物でないのに「狛猪:こまいのしし」などと呼ぶのはそのためです。ちなみに漢字の「狛(はく)」は中国では狼に似た伝説上の生き物を意味します。
などの理由があったと思われます。
さらに。「獅子を知らなかった昔の人が高麗から来た犬だと勘違いしたのだ」という俗説が生まれたのもこのころ。むしろ勘違いしているのは江戸時代の人々のほうで、平安時代の人々は獅子・狛犬と区別していました。
獅子・狛犬の像が庶民の間に広まると、獅子像も含めて狛犬と呼ぶ人も増えました。
獅子・狛犬1000年の歩み
飛鳥時代から江戸時代まで1000年の狛犬の歴史をまとめて。
・飛鳥時代から奈良時代。獅子は仏教の守護獣だった。
・平安時代。宮廷舞踊に獅子舞と狛犬舞があった。
・平安時代中期。獅子と狛犬の像が宮廷の魔除けや調度品になった。
・平安時代後期。神社に神像が置かれると獅子・狛犬の像が神前に置かれるようになった。
・江戸時代。庶民が経済力を持つと寄進が増えた。
・寄進が増えると獅子・狛犬像は神前から本殿の前、参道と人目につく場所に移動した。
・庶民は由来を知らないので獅子も含めて狛犬と呼んだ。デザインも獅子と狛犬の違いが曖昧になった。
ということらしいですね。
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