靈光院天満宮 天下無敵必勝利運!菅原道真と徳川家康の強力タッグで受験戦争に生き残ろう

霊光院天満宮は日本に数ある天満宮の中でも異色の神社です。「霊光」という名前も神秘的ですがそれだけではありません。元寇を退けたという逸話があるのが霊光院天満宮なのです。その御利益を聞いた徳川家康もあやかりたいと崇拝したといいます。

現在では「学問」と「必勝」の神様として信仰されています。受験にもぴったりの神社ですね。

そんなに凄い神様なら「ぜひ行かねば」というわけでやってまいりました。

 京都の住宅街にたたずむ霊光院天満宮

霊光院天満宮

京都御所のすぐ北に伸びる今出川通りを西にむかうと京都市街地を南北に走る堀川通と交差します。このあたりには西に行けば晴明神社。北西にはサッカーや球技の神様として人気の白峯神宮。外国人に人気の西陣織会館があります。大きな通りから脇道に入るとそこは観光客の賑わいとは別世界のような閑静な住宅地。その一角に霊光院天満宮がありました。

霊光院天満宮の場所はちょっとわかりづらい。碁盤の目のように道路が走る京都市内はどこも同じような風景でしかも住宅地の中にあるものだから迷いやすいんですね。

信号機には交差点の名前が書いてあるので地名を覚えておくと今どこにいるのかわかりやすくなります。今出川通から行く場合は「今出川新町」という交差点を南に曲がります。白峯神宮があるのは今出川通の北。だから今出川通を挟んで白峯神宮とは逆の方角になるわけです。この南北に走る通りが新町通です。

新町通を南に行くと途中に同志社大学の継志館とかいう施設が見えてきます。ここまでくれば霊光院天満宮はもうすぐです。さらに歩くと鳥居が見えてきます。「本当にここに凄い神社があるの?」と思うくらい普通の町中です。境内も静かで、よくある村の鎮守といってもいいくらい。村社だから村の守り神なのは確かですが。近くにある晴明神社や白峯神宮とはかなり趣の違う神社です。

由緒

靈光殿が道真ゆかりの河内国若江郡に創建

創建は平安時代の中ごろ。寛仁2年(1018年)。菅原道真の子孫、菅原定義(すがわらの さだよし)が河内国若江郡(大阪府東大阪市)に建てたのが始まり。

かつて菅原道真が大宰府に左遷になったとき。京を旅立った道真は伯母の覚壽尼(かくじゅに)のいる河内国土師ノ里(大阪府藤井寺市)に向かいました。伯母に挨拶をすませて大宰府に向かう途中。河内国若江郡のあたりまで来たとき、空から光がさしてきて天一神と帝釈天が降りてきました。その二神は「お前には罪はない。三年ののちに天に迎えよう。そしてお前の敵を滅ぼそう」と告げて天に去っていきました。

道真が神のお告げを聞いた場所ということでこの地に道真を祀る「靈光殿」が建てられました。ちなみに靈は霊の旧字体です。社名の「霊光」も道真が見た神の光からきています。

もともと河内国には道真の一族・土師氏が多く住んでいました。

天一神とは陰陽道の神。もともとは方位の神で十二天将(十二神将)の一番偉い神様です。北極星の化身、帝釈天の大臣(補佐役)ともいわれます。
帝釈天は仏法の守護神。もともとは雷を武器に戦うインドの雷神です。天帝ともいいます。
平安時代は陰陽道が盛んだった時代。神道にも陰陽道や仏教が混ざってたので様々な神様が一緒になってますね。

靈光殿が京都に移転

その後、応仁の乱から戦国時代の混乱で衰退。祭事を行う若江家も途絶えてしまったので東寺の境内に移されました。

戦国時代後期。霊光殿のご神徳を聞いた徳川家康(当時は松平元康)が剣鏡を奉納。崇拝しました。すると家康は数々の戦いに勝利して江戸幕府をひらくことができました。感謝した家康は祭祀を行う若江家を再興しようと思い立ちます。家康は志半ばで他界しましたが志を継いだ徳川家光が再興を朝廷に働きかけます。若江家は菅原理長が相続して祭祀を行うことになり。霊光殿が復活しました。このとき後水尾天皇が作った東照宮(徳川家康公)の像も祀られ御祭神になりました。

それ以来、朝廷や幕府の崇拝を集めました。

最初は塔の段藪之下(京都市上京区)の菅原理長(若江理長)の邸宅敷地内に社殿が造られました。

その後、1761年に現在の地に移転しました。

現在の社殿は明治5年(1872年)に近衛家の鎮守社を移築したものです。

靈光殿

 

三河国の大名だった徳川家康がなぜ京都にあった霊光殿に注目したのでしょうか?

それは霊光殿にはあるエピソードがあったからです。

天下無敵・元寇を退散させた霊光殿の威力

鎌倉時代の弘安4年(1281年)。モンゴル帝国・高麗連合軍が日本に攻めてきました。

いわゆる「蒙古襲来・元寇」です。

特に2回目の元寇「弘安の役」は大きな戦になりました。靈光殿の祭祀を行っていた菅原(若江)在公は、後宇多天皇の勅命を受けて怨敵退散の祈祷を行いました。すると嵐が来て蒙古軍の船は沈没。日本はモンゴル帝国・高麗連合軍に勝利することができました。

後宇多天皇は敵を退散させることができたのは祈祷のおかげだと感謝して「天下無敵 必勝利運」の額を神社に奉納しました。

その額がこちらです。

天下無敵

鳥居に掲げられているのがその額。
普通は「◯◯神社」と書いた額があるところに「天下無敵必勝利運」の文字があります。
なんともいえないこの威圧感。ご利益ありそうです。

応仁の乱から戦国時代にかけて若江にあった靈光殿の敷地は河内国の武士に奪われてしまうのですが。その武士たちは他の戦国大名(織田信長や豊臣秀吉)に潰されました。バチがあたったんでしょうね。靈光殿を崇拝した徳川家康は天下統一して江戸幕府を作ったんですから。

菅原道真は学問の神として有名です。でもそれだけではありません。災難除けの神としても信仰されていました。天神は天候を操る神ですから、鎌倉時代の人々が暴風雨は天神のおかげと考えるのもわかるような気がします。

大奥の人々も崇拝した東照宮

大奥灯籠

霊光院天満宮は江戸時代に東照大権現(徳川家康公)も祀られました。つまり東照宮になったわけです。

それ以来、徳川家からも崇拝を集めました。境内には徳川家の崇拝を集めていたことを証明する奉納品があります。本殿にある灯籠です。参拝者がお参りするその上で明かりを灯す大きな金色の灯籠。これをよく見ると徳川家を象徴する「三つ葉葵」の家紋とともに「西御丸大奥 御寄附」とあります。西御丸大奥とは江戸城の大奥のこと。大奥の人々から寄進された灯籠のようです。まさか京都で江戸城の大奥と関係する品を見るとは意外でした。

江戸城大奥の人が直接ここに来ることはできませんが、使者が奉納品を持って訪れていたのでしょうね。そういえば霊光院天満宮は二条城から歩いて25~30分ほど。徒歩が主な交通手段の江戸時代の人なら「近い」と感じる距離かもしれません。幕末には徳川家茂や慶喜など京都に滞在した将軍もいます。徳川幕府の人たちもこちらに来ていたのかも知れません。歴史を感じる神社ですね。神社の凄さは見た目ではわからないのです。

霊光院天満宮でには「天下無敵 必勝利運」御守りがあります。元寇を退けたという勝運にあやかりたいですね。
天下無敵御守り

学問の神「菅原道真公」と「徳川家康公」両方をお祀りしているし、元寇を退けた「天下無敵必勝利運」の神。ということで現代の受験戦争を生きる受験生にもピッタリの神様です。

霊光院天満宮の情報

ご祭神 :菅原道真公、徳川家康公
参拝時間:
住 所 :京都府京都市上京区新町通今出川下る徳大寺殿町365

アクセス

靈光院天満宮に行くのは電車が便利です。

駐車場:なし

電車
京都市営地下鉄烏丸線 今出川駅より徒歩約8分。