御霊神社(上御霊神社)の紹介|京都市上京区

上御霊神社

御霊神社は京都市上京区にある歴史のある神社です。

正式な社名は御霊神社ですが、市内にある下御霊神社と区別するために上御霊神社と呼ばれることもあります。

御霊神社にお祭りされている神様はもとは実在した人でした。様々な理由で非業の死をとげた人たちの魂は死後、疫病などの災いをもたらすと考えられました。それが怨霊です。不幸な運命をたどった人々が怨霊にならないよう、安らかに鎮まれるよう作られた神社です。

御霊神社を紹介します。

目次

御霊神社神社

御祭神

上御霊神社

本殿

八所御霊
(以下の八柱の神の総称)

崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
井上大皇后(光仁天皇の皇后)
他戸親王(光仁天皇の皇子)
藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文室宮田麻呂)
火雷神(以上六柱の荒魂)
吉備大臣(吉備真備)

相殿

三社明神(小倉実起、小倉公連、中納言典待局(小倉実起の娘)、小倉季判)

和光明神(菅原和子・若宮)

御霊というと怖い感じがするかもしれませんが。御霊とは安らかな神様になった状態です。怖がる必要はありません。

ご利益

厄除(厄払い、病気平癒、交通安全、旅行安全)
こころしずめ
家内安全
家業繁栄
安産
学業成就
 書道上達

御霊神社(上御霊神社)の由緒と歴史

平安遷都以前

山城国愛宕郡出雲郷(京都市北区)には出雲氏の氏寺・出雲寺(上出雲寺)がありました。御霊神社の元は出雲寺の鎮守社だったともいわれます。

8世紀には出雲郷は2つに分裂していました。出雲寺も上出雲寺と下出雲寺に分裂しました。

社伝によれば。延暦13年(794年)5月。出雲寺に早良親王(崇道天皇)の御霊を祀ったともいわれます。

平安時代

延暦13年(794年)10月22日。桓武天皇は平安京に移りました。

平安京の各地で疫病がおこります。人々は疫病を怨霊の仕業だと考えて様々な場所で怨霊を鎮める祀りを行いました。

貞観5年(863年)5月20日。平安京の神泉苑で御霊会が行われました。平安京の各地で祀られていた御霊を一箇所に集めて御霊会をすれば効果が高いと考えられたからです。

この時に祀られた御霊は崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原夫人(藤原吉子)・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿でした。これらの御霊を六所御霊といいます。

この御霊会が御霊神社(上御霊神社)と下御霊神社の始まりといわれます。祇園御霊会(祇園祭)、紫野御霊会(今宮祭)もこの御霊会が始まりとされます。

御霊会のあと六所御霊は上出雲寺に祀られました。最初は上出雲寺御霊堂といいました。

伊予親王と観察使(藤原仲成)が井上大皇后と他戸親王に変わり、火雷神と吉備大臣(吉備聖霊)が追加されました。(下御霊神社では伊予親王が祭神として残っています)

火雷神と吉備大臣も追加され八所御霊と呼ばれるようになりました。

平安時代の終わりごろになると出雲氏の衰えとともに出雲寺は衰退しました。しかし御霊堂は残り御霊神社として皇室や武家からの信仰を集めます。

室町時代

至徳元年(1384年)。正一位の神階を授けられました。

応永30年(1423年)。室町幕府将軍・足利義満が太刀を奉納。

文正2年(1467年)1月18日。管領の畠山政長が当社境内の森に布陣。そこに畠山義就が攻め寄せて上御霊神社の戦いが行われた。

この戦いが応仁の乱の前哨戦となりました。当地は「応仁の乱発祥の地」とされます。

文明10年(1478年)。社殿が焼失。その後、足利家が再建しました。

安土桃山時代
天正年間(1573~1592)。社殿の修理のため内侍所仮殿が与えられました。

江戸時代

宝暦年間(1704~1710)。社殿の修理のため内侍所仮殿が与えられました。

亨保8年(1723年)。霊元天皇が行幸しました。

亨保14年(1729年)。霊元天皇が行幸しました。

享保18年(1733)。内裏賢所御殿が寄進され本殿になりました。

式内社との関係

平安時代に書かれた延喜式神名帳には出雲井於神社(式内大社)や出雲高野神社(式内小社)があると書かれています。そのいずれかが現在の上御霊神社になるのではないかという説もあります。

でも詳しいことはわからないので、神社の由諸書きでは式内社については触れられていません。

摂社末社

神明神社

神明社
祭神:天照大御神、豊受大神

厳島神社

厳島社

祭神:宗像三女神

福寿稲荷神社

福寿稲荷神社祭神:稲荷神

江戸時代からある稲荷社。小高い場所(築山)の上に鎮座しています。

当初は本殿の南にあったようです。
弘化2年(1845年)。現在の場所に移動しました。

花御所八幡宮

八幡

祭神:八幡神。

室町幕府将軍・足利義満の花の御所の鎮守社であったとされます。

末社

摂社末社

白髪神社

疫病社

粟島神社
 祭神:淡島神

大舞神社

天満宮社
 祭神:菅原道真

多度神社
 祭神:天津彦根命

貴船神社
 祭神:高龗神

長宮三十社

長宮三十社

ここにいながらにして畿内の主要な神社をお参りできるように集めた社です。

春原社、荒神社、稲葉神社、今宮神社、熊野神社、愛宕神社、熱田神社、多賀神社、厳嶋神社、猿田彦神社、貴布禰社、丹生神社、梅宮神社、八坂神社、廣田神社、吉田神社、日吉神社、住吉神社、龍田神社、廣瀬神社、大和神社、石上神社、大神社、大原神社、平野神社、春日神社、松尾神社、八幡神社、賀茂神社、鴨神社

神変塚

神変大菩薩(役行者)をお祀りする塚。

応仁の乱発端・御霊合戦旧跡碑

応仁の乱勃発地

室町幕府の重臣・畠山家で家督争いが起こりました。管領・畠山政長と畠山義就が対立したのです。畠山政長は管領を解任され、追い詰められます。
応仁元年(1467)1月18日。畠山政長は自分の屋敷を焼き払い、御霊の森に陣をしきました。

夕方。対立している畠山義就は政長の陣地を襲撃。戦いが始まりました。19日の朝まで続きます。

戦いに負けた政長は拝殿に火をつけて、細川勝元の屋敷に逃げ込みました。

こうして御霊合戦は終わりましたが、義就を支持する山名政豊(宗全)と政長を支持する細川勝元の戦いは続きます。さらに足利将軍家や全国の守護大名を巻き込んだ戦争へと発展しました。それが11年続いた応仁の乱です。

石碑の文字を書いたのは細川勝元の末裔で旧内閣総理大臣・細川護熙氏です。

畠山政長がここに陣をおいた理由は境内が広く、当時は堀や川に囲まれていたため守りやすいと考えられたこと。近くに細川勝元の邸宅があって援軍を頼めると期待したためと考えられます。

寺社巡り

・京都十六社朱印めぐり

・京洛八社集印めぐり

上御霊神社へのアクセス

地下鉄烏丸線 鞍馬口駅 徒歩3分
市バス37系統 バス停・出雲路俵町 西へ400m

住所:京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495番地

 

よかったらシェアしてね!

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次