大野原八幡神社・古墳がご神体?|香川

大野原八幡本殿 5 四国

大野原八幡宮に行ってきました。香川県の西部。観音寺市大野原町にある氏神様です。

地元の人でなければ知らないような地域の氏神様ですが、ちょっとユニークな神社です。

本殿が古墳にはりつく形で造られてるからです。古い時代には古墳の上に社があったともいわれ。古墳そのものが信仰の対象になっていたことを思わせる神社です。

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大野原八幡神社

高松自動車道の大野原インターチェンジから一般道に降りるとそこは一面の田園風景。かつては名前の通り「大きな野原」だったこの地も今は水田が広がる農作物が豊かな土地になっています。

国道11号線から車を北にはしらせること約4分。大野原八幡宮がありました。大野原の開梱と深く関わる神社です。

鳥居をくぐると広場になっています。

その真中に土俵があります。江戸時代。地元の力士・大砂が江戸の勧進相撲に出場して大関(当時の最高位)の西国を破った記念に造られた土俵です。画像は平成になって再建された姿です。

奉納相撲

 

秋祭りになるとこの土俵の周囲をちょうさ(太鼓台)や檀尻(だんじり)がぐるぐる走り回ります。さして広くもない境内で重さ2トンのちょうさが走り回る姿は迫力満点です。

参道の入り口に随神門があります。

随身門

神社の入り口を守る神様(随神)をお祀りする神門。建てられたのは江戸時代中期。弘化4年(1847年)に修理した記録があるので少なくともそれ以前からあったようです。

随神門をくぐると拝殿があります。

大野原八幡本殿

本殿・随神門は観音寺市の指定文化財です。

御祭神
八幡大神。以下の神の総称。
主祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
足仲日子命(たるなかひこのみこと)(仲哀天皇)
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)

配祭神
平田正重命(ひらたまさしげのみこと)
平田正澄命(ひらたまさずみのみこと)

由緒

江戸時代の初期。京都鹿ケ谷で大名貸し(金融業)を営む平田与一左衛門正重が大野原を開墾しました。平田家は丸亀藩とも取引のある近江の豪商でした。寛永20年(1643年)に正重は丸亀藩の許可をもらって当時荒れ果てていた大野原の開墾を行いました。当時の大野原は姫郷中姫村の一部でした。大野原は台地になっているので水が溜まりにくく水田開発が進んでいなかったのです。

平田正重は周辺の村々の庄屋と話し合い、境界線を決め、荒れ地を開墾して大野原村をつくりました。

そのとき正重の夢の中で「一宮一刹を建てよ」とお告げがありました。正重は椀樫塚を神としてお祀りし、お寺も建てました。

椀樫塚は正重が来る以前から地元の地主神として崇拝されていました。正重の前に大野原に来た者が開拓に失敗して大野原を去ったこともあり、正重はこの神を大事にしなければ大野原開発はできないと考えたのでしょう。このとき建てた寺院は神社の敷地の隣にある慈雲寺です。

正澄は正重の子。正澄の代に平田一族が大野原に移住、開梱を更に進めました。

江戸時代の元禄6年(1693年)。正重の孫・正清が京都の石清水八幡宮より八幡神を勧請。「大野原正八幡宮」としました。というわけで大野原八幡神社としての創建は元禄6年(1693年)です。

でもそれ以前から聖地として崇拝されていた由緒ある場所です。

以後、大野原村(現在の香川県観音寺市大野原町大野原)の氏神として崇敬を集めました。

現在の社殿は弘化4年(1847年)に建てられたものです。

古墳にめり込む本殿

正保2年(1645年)ごろの神社

大野原神社

古墳に接する形、というか一部古墳を削って本殿が古墳に密着する形で建てられています。本殿の裏には古墳の石室があります。周囲に堀が描かれているのがわかります。

拝殿と本殿の下は通り抜けることが出来ます。この門はいつでも空いているわけではありませんが。正月などは空いています。

拝殿裏

右手に見えているのが本殿。古墳(椀樫塚)にめり込むような形で建てられています。

椀貸塚(わんかしづか)

椀樫塚

椀樫塚

6世紀の終わりごろに作られた円墳。

直径約36メートル、高さ8メートルの円墳。かつて椀樫塚は周囲に堀をめぐらした本格的な古墳でした。江戸時代に堀は埋められました。

南側に入り口を持つ横穴式の石室があります。石室を覆う巨石は推定35トン。石室の長さ12.1メートル、幅3.5メートル、高さ3.8メートル。石室の広さは四国最大級。

被葬者は誰なのかわかりません。

古代には讃岐国(とくに西の地域)の開拓は忌部氏と紀氏が熱心でした。刈田郡(現在の観音寺市付近)のあたりは紀氏が開拓したといわれます。もしかすると古代豪族の紀氏のお墓かもしれません。

この地に神社が建てられるより前の時代。この地に住む人達は古墳を 奥津城(おくつき=古代の墓) と考え。椀樫塚は太子殿とよばれました。この地域の人々には太子殿を地主神(とこぬしがみ)として崇拝していました。太子とは王位継承権を持つ皇子という意味ですが。皇族が来たという記録はありません。平安~鎌倉時代に姫江庄が皇室の御料地になったことはあるのと関係があるのでしょうか。

いずれにしても、地元の人々にとっては「尊い人」が眠っていると考えたのでしょう。

現在は大野原八幡神社の所有となっています。香川県指定史跡

大野原八幡神社は椀樫塚の入り口に面する形で建てられています。昔の人々は塚そのものが御神体と考えていたのかもしれません。

秋祭りで大野原八幡神社のお神輿が向かう御旅所が平塚という古墳です。平塚は直径52メートルの香川県最大級の円墳。大野原では大きな古墳を聖地として考えていたようです。

旧八幡宮

本殿の裏手にある椀樫塚のそのまた東にあるのが旧八幡宮です。

応神宮

 

旧八幡

御祭神:正八幡大菩薩

明治の神仏分離令によって本殿の御祭神が正八幡菩薩から八幡大神に変わりました。

明治14年(1881年)。氏子の人々は本殿とは別に江戸時代の御祭神をお祀りする社を造りました。

奈良時代には八幡神=応神天皇=八幡大菩薩の信仰ができあがりました。神仏分離では八幡神は神格を分けずに呼び名を変えるところが多いと思います。ところが律儀な大野原の人々は正八幡大菩薩と応神天皇の神格は別と考え。わざわざ別の社を建てたようです。

どことなく仏教寺院的な雰囲気がするのは「正八幡大菩薩」をお祀りしているためなのですね。

現代人なら「神なの?仏なの?」と思うところですが神仏習合時代の名残が感じられる場所です。

現在でもお祀りではお神輿がこちらにも立ち寄ります。旧といいながら今でも信仰されている八幡様です。

應神社(応神社)

応神社

碗貸塚の東隣りにある社。
御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)

中姫村の産土神。平安時代9世紀ごろの創建といわれます。最初の頃は古墳の上に社を作っていたようです。大野原八幡宮ができたころには椀樫塚の東(現在地)にありました。現在の社殿は昭和に再建されたものです。

中姫村(香川県観音寺市大野原町中姫)とは大野原村の隣にあった地域です。町村合併を繰り返し現在は観音寺市大野原町中姫となっています。

中姫村は大野原村よりも古い地域です。応神社は大野原村ができる前から産土神として祀られていました。

江戸時代に大野原村が開拓され大野原正八幡宮の勧請後。大野原八幡宮と應神宮の間で境界を巡って争いになりました。そのため丸亀藩に境を決めてもらうという出来事もあったそうです。

現在では応神社は中姫八幡神社の飛び地になっています。大野原八幡神社と中姫八幡神社は直線距離で約1.5キロ離れています。大野原八幡神社の敷地なのに別の神社の土地があるのです。しかも中姫八幡神社と中姫地区の人達が祭祀を行っているちょっとかわったお社です。

延喜式神名帳にある刈田郡・於神社の候補ともいわれます。「於」と「応」の発音が似てるからということです。

江戸時代の丸亀藩が作った「西讃府志」という文書には。
「応神祠は椀貸穴の上にあり、一説に式内なる於神社是なるといえり」と書かれています。

他にも観音寺市粟井町の 於神社(おのじんじゃ:本当は「うえの」と読むらしい)が候補になってます。

個人的には粟井町の於神社が式内社だったと思うのですが。江戸時代には既にどちらなのかわからなくなってたようです。

応神社は地元の人達がお祀りしていた地主神ではなかったのでしょうか。

 注:延喜式神名帳:平安時代に作られた朝廷公認の神社リスト

穣田乃磐座(じょうでんのいわくら)

 岩倉

椀樫塚をはじめ現在でも大野原にはいくつかの古墳があります。江戸時代には多くの古墳がありました。

現在では多くの古墳が壊され開拓されました。明治以降に壊された古墳も多いです。室町時代後半から昭和にかけて日本各地で古墳が壊されました。ここもそうした日本の中で起きた出来事を今に伝える場所なのです。

大野原の人々は奥津城(=古墳)に眠る人々の魂を慰めるため穣田乃磐座(じょうでんのいわくら)を造り大野原の守護霊としてお祀りしました。穣田とは「実り豊かな田」という意味です。

岩倉に使われている巨石はかつては古墳の中にあったものです。大野原八幡宮境内にはいくつかの巨石があります。その石はもとは古墳に使われていたものだといいます。

八重垣神社:縁結びの神様

八重垣神社

本殿裏手にります。木々に囲まれた小さな祠です。

御祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)

神社の由緒書にも縁結びの神として紹介されています。

大元霊:宇宙の意志

大元霊大元霊八重垣神社の隣りにあるのが石を敷き詰めた場所に直立する石の柱。

石碑には「大元靈」「天津渦々志八津奈芸天祖大神(あまつうずうずしやつなぎあめのみおやのおおかみ)と書かれています。石碑は平成になって新調されたものです。

でも石の柱は古そうです。石柱信仰は古代からありますが。これがいつからあるのかはわかりません。

石碑にある大元霊とは宇宙の神。宇宙の始まりから存在し、宇宙の中心になるとされる神です。今風に言えば「宇宙の意志」です。天津渦々志八津奈芸天祖大神は大元霊の別名。

日本では室町時代ごろから天道(てんとう)思想が広まりました。天道思想では「世の中の中心で全てを見ている意思が存在する」と考えられました。仏教・儒教・神道は一つと考える神仏習合がさらに進んだ考え方です。

「宇宙の意志」は庶民の間では「おてんとう様」と呼ばれました。

古事記では天之御中主神や造化の三神、日本書紀では国常立尊。儒教では 天(てん)。仏教では釈迦如来や大日如来。

これが大元霊だとすれば真ん中の石の柱は「宇宙の意思」を表現しているのでしょう。

「宇宙の意志」の呼び名は宗教や流派によって違います。「大元靈」や「天津渦々志八津奈芸天祖大神」もいくつかある呼び名のひとつです。最近は古神道のジャンルでみかけますが。ここは新興宗教の施設ではなく普通の氏神様です。

江戸時代までの神道界では吉田神道(元本宗源神道、唯一宗源神道とも)がそういう考え方を広めていたのでその影響かもしれません。

大野原八幡神社の情報

住 所 : 香川県観音寺市大野原町大野原1745

アクセス
公共交通機関はありません。
車での移動になります。

高松自動車道・大野原インターチェンジより車で4分。
JR予讃線・観音寺駅より車で10分。

駐車場:有り

5 四国
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