3月3日はひなまつり。
でもどうして3月3日にお雛様を飾るのでしょうか?
ひな祭りの意味を紹介します。
3月3日は上巳の節句
別名「桃の節句」
古代中国には季節の変わり目に邪気払いをする習慣がありました。
この変わり目に邪気払いする日を「節句」といいます。
節目節目にお供え物をして疫病や災いを運ぶものを追い払ってしまおうというわけです。
1月7日 人日(じんじつ)の節句
3月3日 上巳(じょうし)の節句
5月5日 端午(たんご)の節句
7月7日 七夕(しちせき)の節句
9月9日 重陽(ちょうよう)の節句です。
この中の3月3日 上巳(じょうし)の節句が「ひな祭りの日」です。
上巳とは
もともとは上巳の日は3月3日に固定していたわけではありません。
「上巳の節句」の上巳とは「3月最初の巳の日」という意味。
暦の考え方には「上中下」があります。それぞれ「最初・真ん中・終わり」の意味です。
巳は干支の「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の 巳(み)の日。現在は1年ごとに干支がめぐっていますけれど。干支は年だけでなく日や月ごとにも巡っています。旧暦では今日は「子」の日、今日は「牛」の日というのが毎日決まってるわけです。だから一月にだいたい2~3回干支がめぐってくるわけです。
だから最初の巳の日は月の上旬に巡ってくるわけです。
古代中国では3月の上巳の日には穢れを払う行事を行っていました。
やがて3月3日に固定されます。
というのも3は縁起の良い数。縁起のいいものを重ねるとさらに良くなる。「重日思想」という考え方。同じ数が何度も出てくる日は神様の恵みも大きくなるというもの。
だから節句は奇数月の奇数日、同じ数の続く奇数日になったのです。1月だけは7日です。これは1月1日は元旦なのでもともとお祝いをする日です。節句にする必要はありません。そこで縁起のいい7の日にしたわけです。
心身をきれいにして汚れを落とし、厄も落とします。今ほど入浴が一般的でなかった時代には上巳の日に入浴して体を綺麗サッパリにしていたのです。体をきれいにして心もきれいにする。
そして桃の酒を飲んで体の中からも邪気を追い払っていたのです。桃は古来より悪霊を払う力がある魔法の食べ物とされていました。
宮中主催の行事になり。この日には宮廷の人びとは体をきれいにして、酒を飲みました。
このとき。ゆっくりと流れる小川に盃を浮かべ、流れてくるまでに歌を詠む遊びが行われました。流觴曲水という遊びです。
この「流觴曲水」が奈良時代に日本に伝わって「曲水の宴」になりました。今でも神社の行事でみかけますけれど、奈良から平安時代には宮中で大流行したようです。
日本の上巳の節句
上巳の節句は奈良時代に日本に伝わりました。
厄払いとしての節句の行事
風流な遊びとしての曲水の宴。
様々な形になって日本で広まりました。
流し雛の誕生
上巳の節句はもともと古くから日本にあった「祓え」の行事と合体。
撫でもので体をなでて穢を移して捨てるという古来の風習がありました。
上巳の節句に自分の身代わりになる人形(ひとがた)を作り、その人形に自分の穢れを移し。穢れを移した人形を川に流すようになりました。
桃を使った厄払いも弥生時代から行っていたので、上巳の節句は抵抗なくうけいれられたようです。
人形と桃の力を使って疫病や災難を追い払う行事として日本に広まりました。
人形といっても紙や草で作った簡単なものでした。
今でも神社なんかではお祓いのための人形(ひとがた)をみかけます。もともと人形を使う穢れ払いの方法は陰陽道が行っていたものですけど今では神社でも行うようになりました。
なでものが人形に
上巳の節句で使う人形は使い捨ての簡単なものでした。
やがて平安時代になると人形は公家の女の子の遊び「雛(ひいな)遊び」と一緒になりました。より人間らしい形の形代(かたしろ)になりました。最初は紙で作っていたようです。人形は子供の身代わりになって邪気を受け止め、流されることで子供を守ってくれる。と考えられたのです。
人形が豪華に
流し雛で使われた人形の姿は立雛にその名残があります。もちろん現在の立雛は立派なつくりで捨てるのはもったいないですね。それに今では物を川に流していたら苦情が出てしまうのでできませんけれど。
やがて人形はさらに豪華になります。こういう飾り物が時代とともに豪華になるのはお約束ですね。
すると使い捨てにするのはもったいなくなって飾るための人形になります。そこで雛人形を「上巳の日」に飾るようになりました。
「厄払いは?」「流さなくていいの?」と思いますが。人形を飾って子供の健康を願う。雛人形は願いを叶えるための臨時の御神体というか依代になったわけです。古代の考え方では神様はお祭りのときにだけ降臨して依代にとどまるもの。子供の成長を願う日に依代をおいて子供の成長を願う。という発想はとても日本的です。
江戸時代に豪華さはエスカレート
ままごと遊びのお人形から始まったお雛様。
今のような段差のある部隊に勢揃いするようになったのは江戸時代からです。
きっかけは徳川家康の孫・東福門院が作った人形。
2代将軍・徳川秀忠とお江の娘として生まれた和子は政略結婚で天皇家に嫁ぎました。
後水尾天皇の中宮になった和子は興子を生みました。やがて徳川家と天皇家のあいだでいろいろあって興子内親王は即位・明正天皇になります。古くからの考えで女帝は独身でなければいけないという慣習があります(少なくとも在位中は独身)。ということは興子はもう結婚できないかもしれません。
東福門院・和子は娘の幸せを祈り、理想の姿を表現しようと美男・美女が座る押絵の掛け軸を作りました。美男は在原業平、美女は小野小町をイメージして作ったといいます。
やがて寛永年間(1624~1643年)には立体の雛人形が飾られるようになり。寛延年間(1748~1750年)には2段になり、明和年間(1764~1771年)には3段になり、段々と高さが増えていきます。そして天保年間(1830~1843年)には7段の雛壇が飾られるようになりました。江戸時代の終わりごろには現在のような豪華な雛壇ができていたのです。
もともとは高くなることには意味はなかったのですが。やはり豪華にしたいという親心でしょうか。時代とともに段が高くなりました。それぞれの段には何が飾られてどのような意味があるのか紹介します。
雛壇の意味
1段目:内裏雛(だいりびな)
お内裏様とお雛様、天皇と皇后、お殿様とお姫様。呼び方はいろいろ。内裏とは天皇が暮らす場所のこと。内裏に住んでる人=天皇というわけです。必ず男女一対。
向かって男が左、女が右に座ります。現在の結婚式の座り方と同じ。京風では逆で向かって男が右、女が左に座ります。
2段目:三人官女
宮中に仕える女官。3はめでたい数。真ん中にいる女官が一番くらいが高い(年上)のでお歯黒で座ってる。両端が若い女官で立てっていることが多いです。
3段目:五人囃子
昔の楽団、演奏隊。向かって右から謡(うた)、増え、小鼓(こかわ)、大鼓(おおかわ)、太鼓になります。
4段目:随身(ずいしん)
内裏の護衛をする兵士。親衛隊。神社の神門にある随身と同じ。ガードマンです。右大臣・左大臣の場合もあります。
5段目:三士丁(衛士)
宮中の使用人。
内裏の男女は陰陽のペア。万物は性質の違うエネルギーのバランスで成り立っていると考える陰陽思想では、2はバランスのとれた数。
その下の段いる人の数は3か5です。3、5、7は古来より縁起の良い数とされてきました。人の数にも縁起をかついでいることがわかります。
6,7段 雛道具
武家の嫁入り道具を真似て作った物。
7段目には駕籠と御所車(牛車)を置きます。
最近では7人雅楽や3歌人(柿本人麻呂・小野小町・菅原道真)を追加したさらに豪華な雛壇もあります。
敷物は「赤」が基本。赤は「魔よけ」の色です。それに昔は赤い染料には虫よけの効果もあったので実用的な意味でも赤が使われました。
現代の住宅事情ではシンプルな1段や2段が人気です。
時代とともに雛人形も変わっていくのですね。
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