学問の神様として人気の天神様。
天神社・天満宮の御祭神は平安時代に活躍した学者の菅原道真公ですね。
天満宮に行くと臥牛(がぎゅう)と呼ばれる牛の像が多くあります。臥とは「横になっている」「ふせっている」という意味です。
でもどうして天神様の使いは牛なのでしょうか?
歴史上の菅原道真と牛は関係あるのでしょうか?
その理由を探るともともと北野に祀られていた雷神や、神号になった「天満大自在天神」とゆかりがあることが分かりました。
牛が天神様の使いになったわけを紹介します。
牛が天神さまの使いなのはなぜ?
牛が菅原道真とゆかりのある生き物だったから
菅原道真は平安時代の承和12年(845年)乙丑(きのとうし)に生まれました。
つまり菅原道真は丑(うし)年生まれです。
干支は飛鳥時代から知られるようになり、日本人に馴染み深いものになりました。
干支の動物から名前を付けた有名人もいたくらいです。丑年ではありませんが、厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我馬子は午年生まれといわれます。
道真本人が牛に親しみをもっていたかどうかはわかりません。でも人々が道真と牛は縁の深いものと考えたのは十分ありそうな話です。
さらにこのような話もあります。
道真の死後。門弟たちが亡骸を載せた車を牛に引かせて進んだところ。途中で急に牛が座り込んで動かなくなりました。そこで「これは道真公の御心によるものだろう」とその地に埋葬して墓所にしました。その言い伝えにちなむといわれます。
でも牛と天神様のかかわりはそれだけではありません。
牛は雷神に捧げられる生き物
北野天満宮は菅原道真公をお祀りする神社として有名です。ところが道真が祀られる以前から北野には雷公(雷神)がお祀りされていました。
現在は北野天満宮境内に鎮座する火之御子社になってます。
雷神は落雷を落とす恐ろしい神様です。でも雨を降らせる神様です。人は水がなくては生きていけませんし、水は農耕社会にはなくてはならないものです。
そこで北野の地には雷神が祀られ雨乞い祈願・豊作祈願が行われていました。
雨乞いの儀式では牛が雷神に捧げる生贄でした。牛は雷神に捧げられる動物だったのです。
道真と雷神の合体
道真の死後。宮中に落雷があって多くの死傷者がでました。そこで都の人々は道真が怨霊になって帰ってきたと言って恐れました。道真の怨霊は雷神になったと考えられ「火雷神」「火雷天神」と呼ばれました。
そして雷神に捧げられていた牛は「火雷天神」の使者になったのです。
シヴァ神の使いナンディー
怨霊になった菅原道真には朝廷から「天満大自在天神」の神号が贈られました。
天満大自在天神の使いは白い牛です。
「天満大自在天神」の元になったのは仏教の「大自在天」。
永厳, Public domain, via Wikimedia Commons
大自在天は天部の神で三目八臂で白牛に乗る姿で描かれます。色界(天界だが悟りをひらいていない者がすむ世界)の王です。
仏教の魔王=第六天魔王波旬 が住む世界「他化自在天」とは違います。
世界の王の称号を与えるとは朝廷も道真の怨霊をよほど恐れたのでしょう。
大自在天=シヴァ
大自在天はヒンズー教のシヴァ神と同じ神様。大自在天に三つの目があるのはシヴァが第三の目を持っているからです。
シヴァ神の乗り物は聖なる牛ナンディー(ナンディン)です。インドのシヴァ派の神殿には座っているナンディーの像があります。
さすがに石像に色は付いてませんが、絵画ではナンディーの色は乳白色で描かれます。
シヴァ神殿にあるナンディーの像は、天満宮の臥牛そっくりです。
ナンディーは正確にはコブウシという種類の牛です。インドでは牛といえばコブウシなのです。でも日本にはコブウシはいないので大自在天の眷属は牛です。
シヴァとナンディーが仏教に取り入れられて大自在天と眷属の白牛になり。
大自在天の神格が道真に与えられて「天満大自在天神」になりました。だから天神様の使いは牛なのですね。
水牛に乗る憤怒の大威徳明王
天神さまには「日本太上威徳天」という神号もあります。こちらは仏教関係者が広めました。
「日本太上威徳天」の名前は密教の「大威徳明王」からつけられました。
大威徳明王は五大明王のひとつ西方の守護者。
梵名はヤーマンタカ(死の神ヤマを下す者)。マヒシャサンヴァラ(水牛マヒシャを押し止める者) ともいいます。
大威徳明王はかなり怖い表情の鬼神で水牛に乗った姿で描かれます。日本には水牛はいないので牛に乗った明王として描かれます。
大威徳明王もシヴァ神の荒ぶる化身バイラヴァを仏教にとりこんだものです。
明王は密教や山岳修行者の間で人気がありました。仏教関係者の間では猛威を振るう道真の怨霊の凄まじさが大威徳明王を彷彿とさせたのでしょう。
こちらも牛と関係のある荒ぶる神です。
大威徳明王(ヤーマンタカ)は頭に角を生やした姿で描かれることもあり。東アジアの各地で牛頭の神の誕生に大きな影響を与えた明王です。
天神さまの使いが牛のわけ
菅原道真が丑年生まれだった。ということもあり。道真と牛は早くから結び付けられました。
道真が雷神と習合して「火雷天神」になり、「天満大自在天神」の神号が朝廷から与えられ北野天満宮の御祭神として祀られました。すると天神の使者=牛のイメージが固まっていきました。
でも臥牛をビジュアル化するときに一番大きな影響を与えたのは大自在天が乗る白牛でしょう。天神様の絵には白い牛に乗ってるものもあります。大げさにいうと、天神さまの使いの牛はナンディーの日本版なのです。
ナンディーは幸福を運んでくる牛。天満宮で撫で牛として親しまれる臥牛とどことなく似たところがあります。
こうしていくつかの理由が重なって牛が使いになったようです。信仰とは一つの理由だけで成り立つものではありません。様々な要素が合体していつのまにか信仰になっているからです。神様やその眷属にも長い年月の間に合体したさまざまなドラマが隠されているのですね。
かつて天神様は平安時代の人々には恐れられました。荒ぶる神としての性格から武神として武将から崇拝されたこともあります。しだいに優しい学問の神様になっていきました。
鎌倉時代になると学問の神様として有名になります。江戸時代には寺子屋の普及で庶民の子供にも学問の神様として広まりまりました。
そうなると自在天の眷属だった牛やシヴァ神の眷属ナンディー、荒ぶる明王の眷属も関係ありません。ましてや雷神に生贄にされる牛でもありません。
イメージの元になったのは仏教の神に仕える眷属だったかもしれませんが、天満宮にある牛はすでに別のもの。
牛は天神さまの使い。道真公が丑年生まれだったから、道真公を運んだから。なにより牛は身近な生き物でした。天神さまを信仰する人々にとってはそれだけでよかったのです。
長い年月を経て牛は庶民に親しみやすい福を授けてくれる天神様の使いになったのでした。
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