ハレ・ケ・ケガレ。現代日本人の心を作った古代人の教えとは

 

日本には古来より「ハレ・ケ・ケガレ」という考え方がありました。信仰といってもいいかもしれません。

「そんな言葉は知らない」と思ってもほとんどの日本人がこの考え方で生きています。

「私は神は信じない。無宗教だ」と思ってる人でも知らない間に「ハレ・ケ・ケガレ」という信仰の中で動いているのです。あまりにも当たり前すぎて信仰であることを忘れてしまってるんですね。

日本人を動かしている「ハレ・ケ・ケガレ」について紹介します。

 

ハレ・ケ・ケガレとは

ハレ

「ハレ」とは非日常の状態。
生命が生きていくためにはエネルギーが必要です。生命エネルギーは「氣、気」とも書きます。生命はたえずエネルギーを消費しています。どこかでエネルギーを補給しなければいけません。エネルギーを補給しているときが「ハレ」なんです。

 

「ケ」とは日常の状態。
生命のエネルギー(気)が足りている状態です。
普通の状態というと、たいしたことがないと思えるかもしれません。でも私達祖先は普通に生きていられることが大切だと考え。「ケ」の状態が一番大切だと考えました。

 

ケガレ

ケガレにも様々な意味があります。

「ケ」が枯れた状態が、「ケ枯れ」
生命エネルギーが足りない状態です。

エネルギーの足りない状態がひどくなると死に至ります。
死や衰退をまねくものは、嫌なもの、避けるべきものになります。
避けるべきものを「穢」と表現するようになり、非日常で避けなければいけないものは「穢」となります。

気が足りている状態を「きよし」。
気が足りてない状態を「きたなし」。
と呼びました。

気がたりている日常の状態を「きよい」状態。
普通じゃない日常を乱す状態を「きたない」と考えるようになります。

 

ケを取り戻すためにおこなうこと

 

生命エネルギーが足りない状態が続くと生き物は病気になったり弱ったり、ひどいときには死んでしまいます。

そこでエネルギーが満ちている状態=ケの状態に戻す作業が必要になりました。

ケにもどす方法は大きく分けて2つあります。

・儀式や特別なことを行って普段以上にエネルギーを補給すること。
・異常なもの日常を乱すものを遠ざけること。

儀式やお祭りなどはこの二つの方法のどちから、あるいは両方の意味があるのです。

ハレも非日常という意味では「ケガレ」に似ています。でも、ハレはプラスの(良い)非日常。ケガレはマイナスの(好ましくない)非日常。という違いがあります。

古来より人々はエネルギーが足りている日常の状態「ケ」を取り戻すために、さまざまな儀式や作法を編み出してきました。また非日常の原因になるものは「不浄」「忌」としてできるだけ遠ざけようとしました。つまり「タブー(禁忌)」と考えるようになりました。

 

神様はケガレを嫌う

日本古来の価値観が強く影響しているのが「神道」です。神道の中では神様はケガレを嫌います。ケガレた状態だと神様も力がなくなって弱くなってしまいます。だからケガレがあるところには神様はやってこないのです。

神というと何でもできる全知全能の神を想像する人が多いと思います。でもそれはキリスト教などの一神教の影響です。日本古来の考え方では神とは霊の一種、精霊のようなものです。祖先かもしれないし、自然かもしれないし、動物かもしれない。自然界に存在する意志のようなものです。そして人間もその自然界の一部です。だから神道の神様はとても人間的です。

そのような人間的な声質を持つ神様はケガレを嫌うものだと古代の人々は考えました。

 

ケガレは伝染する

古来より日本人はケガレは伝染すると考えました。

汚いものに触れると、きれいなものでも汚れてしまいます。伝染病の患者と接して病気が伝染ることもあったでしょう。

だからケガレに触れるとケの状態にある人でもケガレの状態になってしまうと考えたのです。

 

不衛生なものはケガレ

時代が進むと物理的な汚れも「ケガレ」と考えるようになりました。不潔な環境では伝染病が流行ります。現代科学では不潔な状態は雑菌が繁殖しやすい、だから病気になると説明できます。

でも古代の人々にとって病はケガレ、あるいはケガレた魂=怨霊が引き起こすものです。ですから「汚いもの=ケガレ」という説得力が増すのです。とくに生活レベルが上がればあがるほど不潔=ケガレという信仰は強くなりました。

古代ではきれいにしようと思っても限界がありました。でも、生活水準や技術が高くなるときれいにしようと思えばいくらでも綺麗にできます。事実きれいにすれば伝染病も減ります。そのことは日本人の「汚いもの=ケガレ」信仰をますます強くしました。

ケガレ信仰は現代でも生きています。現代では、頭では「雑菌がわくから」と思ってるかもしれません。ても意識の奥底では「ケガレ」な状態にあるからと信じてしまってます。だから必要以上に清潔にしたり科学的に意味のないものまできれいにしたりするのです。

日本人は世界的にみてもきれい好き、清潔が好きな民族です。それはケガレを嫌う信仰がもとになっているのですね。

 

犯罪もケガレ

普通じゃないものはケガレです。人間の行動で普通じゃないものもケガレと考えるようになりました。そのわかりやすい例が「犯罪」です。

犯罪までいかなくても道徳的に乱れたものはケガレと考えます。現代でも乱れた男女関係を「フケツ」と呼ぶ人がいます。フケツ=ケガレですから、人間が行うこともケガレの対象になるわかりやすい例です。

法律や道徳は時代によってかわります。でもその時代の常識とてらしあわせて「普通でない行為」はケガレになるのです。

いちどケガレてしまうとなかなかもとに戻らないと考えます。現代でも一度犯罪を犯すと社会的に認めてもらうのは難しいです。家族も犯罪者と同じ扱いを受けます。

これは犯罪者は「ケガレ」のもとであり、その家族もケガレた状態にあると考えるからです。

 

究極の非日常は「死」

ケガレの中でも最も避けたいものは「死」です。死とは生命のエネルギーが枯れ果て、形が無くなってしまうた最悪の状態。究極の非日常です。日本の神話では神ですら「死」を迎えます。

究極の非日常「死」を避けるために人々は様々な知恵を働かせました。

死そのものを忌み嫌いますが、死者の出た家族、場所も忌まわしい存在と考えます。古い時代には家族に死者が出ると世間との交わりが制限されました。「喪中」という考えがその名残です。死者が出た家族は、ケガレな状態にある。ケガレは伝染しますから、家族に死者が出た人と接すると周囲の人にも死者が出るかもしれない。

そこで家族に死者が出た人はケガレが収まるまで、できるだけ人との接触を避けるようになりました。それが「喪」の起源なんです。

ケガレは徐々に消えていきますが、儀式をすることでケガレを早く消すことができます。3日、7日、33日、49日と早い時期に行事を行うのはケガレを早く消すための儀式だからです。これらは仏教の行事のように思います。でも本来は仏教と死者のための儀式は関係ありません。日本古代の信仰がもとになっているのです。

葬式から帰ったら塩をまくのもケガレから逃れるための儀式なんです。

49日などの数字の根拠は道教からきていますし、祖霊信仰とも結びついています。仏教では様々な理屈がつけられています。でも根本にあるのは日本人のケガレに対する信仰なのです。インドで発生した本来の仏教には法事はありません。

やがて喪の意味は忘れられ、形だけが残って行事になってしまいます。本来はケガレを払う儀式だったのです。

 

住宅事情にもケガレの名残り

死者の出た場所は嫌われます。建築物だとなおさらです。たしかに死臭が残っていたり、血痕や死亡した痕跡が残っていれば苦痛に感じるでしょう。でもリフォームしてきれいにして痕跡が残らないようにすれば科学的には問題はないはずです。でも心理的瑕疵物件は嫌われます。でもそれは日本人の心に「死者の出た場所は不吉」という「ケガレ」の信仰が残っている証なのです。

死者が出た場所にはケガレが残っている。そこにいくと自分もケガレた状態になる。不幸がおとずれるかもしれない。というわけです。「幽霊が出るから嫌」という意見もあるかもしれません。でも幽霊も「ケガレ」が引き起こす現象のひとつ。「普通じゃない死に方をした魂が災いを起こす」怨霊信仰とおなじなんです。それに幽霊を見たことがない人でもなんとなく「嫌」だと思うのはケガレの信仰があるからなのです。

 

日常生活に深く浸透したケガレ

「ハレ・ケ・ケガレ」の信仰が人々に広まると、生命エネルギーが足りてる状態の「ケ」。足りない状態の「ケガレ」という意味が忘れ去られてしまいました。生命エネルギーが足りてる状態とは日常のことです。つまり「普通」な状態です。

本来は生命のエネルギーのある、なし。生命活動を維持できるかどうかについての考えでした。ところが、時代とともに意味が変化しました。日常の生活を乱すものは「ケガレ」、普通じゃないものは「ケガレ」と考えるようになったのです。

ケガレを遠ざければ普通に戻ることができる。ケガレをなくしてしまえは普通に戻ることができる。こうした考えは日本人の性格にも強く影響しています。

祭りやタブーはどの世界でもあります。ケガレを嫌う習慣も日本だけにあったわけではありません。古代には世界各地にあったでしょう。日本ではキリスト教やイスラム教のような違う考えを認めない宗教が普及しなかったこともあり、古い教えが残ったのです。

そのため日本では古代の思想が日常生活レベルで深く浸透しました。現代でも強く残っています。ほとんどの人が信仰とは気が付かないまま「ハレ」「ケ」「ケガレ」を気にして生きているのですね。

日常レベルで意識することなく信仰を実践している。という意味では日本人はキリスト教徒やイスラム教徒以上に宗教的といえるかもしれません。